生まれてから死ぬまでの記録

人生とは、生まれてから死ぬまでの間のこと

死に至る病 と三島由紀夫のことなど

2006-04-02 00:20:51 | 読書の記録
キルケゴールの代表著作です。この本にある
「死に至る病とは絶望のことである」
という言葉は有名だと思うのですが、ここで言われている死や絶望は
一般的な死や絶望ではありません。
それがこの本の要であり、面白いところです。

まず冒頭に福音書のラザロに関するエピソードが語られます。
ラザロが病に倒れたとき、キリストは言います。
「この病は死に至らず」と。
しかし、ラザロは死んで、その知らせがキリストのもとに来たときに、
キリストは「ラザロは眠っているだけだ。ラザロのところに行こう」と言って、
ラザロの墓に行き、「ラザロ、起きなさい」と呼びかけると、ラザロが墓から
でてきた、というものです。
キルケゴールがこの本で語っている死は、キリストが「死に至らず」と言った
その「死」です。

そのような死に至るものが、キルケゴールにとっての絶望であり、
キルケゴールに言わせれば、人間の殆どは絶望してるということです。
絶望していない人間は稀なんだ、と。
この辺りのキルケゴールの考察が、面白い。

でも、この本は基本的に、キリスト教のことを知ってないと理解不可能だと思う。
だから、ここでくどくど書いたところで、あまり理解されないだろうし、
ただ一つ、キリスト教抜きで理解できて面白いことを書いておくと、
キルケゴールは、「人間は精神である」と「精神とは心身の綜合である」
としてて、「幸福とは精神の規定ではなく、直接性である」と書いてることです。

この部分を読んで、三島由紀夫が幸せというのもを軽蔑してた理由がわかった。
あの人は徹底的に精神な人だったから、直接性なんて軽蔑してただろうし、
だから幸せも軽蔑してたんだな、と。

最近、ぼんやり考えることなんですが、
人間は実務家と思想家の2種類に分けられるな、と。
で、多くの人は実務家(=直接性を問題にする人たち)なんだ。
だから、幸せというものが重要な問題だし、その幸せは直接性なんだ。
直接性ってのは、
彼女と別れたから彼女がいない→悲しい  新しく彼女ができた→幸せ
って、こういうようなことですけどね。
もちろんそれでいいんだろうけど、それだけでいいのか、というと
私としてはビミョーだな。
でも、幸せになるためには、それだけでいいんだ。
だから、実務家は依然として実務家のままなんだ。

三島由紀夫は思想家な人だったと思う。
この人は死ぬ数日前に「私は私の人生を殆ど愛さない」と言ってて、
最後の小説のラストで「この庭には何もない」という虚無感を表してるんですが、
生きてる実感・歓びというのは実に、直接性の中にあるものだからだろうなぁ。
そういうものを重視せず、自分の思想(観念、信念、でもいい)のみを重視
してた人の思想が瓦解したら、そりゃあ、愛してないし、何もない、って
ことになるだろう、と思う。
思想家が実務家に転向しようとしたら、「俗悪」という言葉が立ちはだかってるしね。

『死に至る病』でキルケゴールも書いてるけど、
直接性の中だけで生きていくなら、それは結局、幸福=幸運になるのよね。
実務家でありながら、自分の努力で、実力で、自分の幸福を手に入れた
と思ってる人は、幸運のなんたるか、をわかってないと思う。
こういう人のことをキルケゴールは「自惚れが強い」と書いてて、この辺りの
辛らつさも面白い。

幸運だけで人生は渡っていけませんよ、ともキルケゴールは書いてて、それは
全くその通りだと思う。
だから、直接性の中だけで生きていてはいけないけれど、三島のように、
自分の思想の中だけで生きていてもいけないな、と思う。



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