太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

睡眠導入本

2017-08-22 08:24:18 | 日記

年が行ってから比較的本は読むようになった。第1次は中学、第2次は大学、働き出してからはもっぱら専門書。今は時間がある為読むようになった第3次ということが出来るかも知れない。本は乱読で古本屋で2時間ばかり掛けて選ぶ。読む時間帯は大概就寝前である。しかし、古本屋というのはジャンルは多様であるが、基本、読んだけど面白くなくて蔵書にするほどでもなく売り飛ばされた、言わば或る人にとって不要の物である。これが何で本として出版されたのだろう、作者はこれでも一端の著作だと思って書いているのだろうかと不思議に思う、つまり下らない本が殆どである。それでも辛抱して、折角選んで買ったのだから、きっと想像もつかない素晴らしい内容が何処かにあるのではと期待し最後まで読む。多くは睡眠導入本としての役割は果たしてくれるのだけは効果はあるのだが。

新刊をと本屋に立ち寄ることもあるが、中々選ぶことができない。流行作家の物が大半で帯の素晴らしい説明につられて買う事もあるが大概は失望である。市の図書館は比較的大きく蔵書も古典を含めて豊富である。選ぶ時間も気兼ねしなくて済むので良さそうに思えるが、何時行っても同年輩の人達がゆったりしたソファで快適なエアコンの下で読書に耽っている姿を見るのがどうも嫌だ。朝から日がな一日この人達はここに座っているのだろうか、他にすることは無いのだろうかと要らぬお節介、何れ自分もこうなると思いつつ、今ではないな、同族には早いと勝手に自己差別を(心の中で)主張する。一人の世界に埋没する姿に孤独と他を受け入れない偏固を感じ、あまり傍に長居したくないのが正直な所である。反対に古本屋で明らかに農作業で日焼けしたオジさんが大量に本を買う姿など見ると、ああこの人は本が好きなんだ、きっと一日の作業を終えて、酒は飲まないが同じ様な楽しみを本に見つけているのだと微笑ましく思うことがある。

学生時代は随分無理をして哲学や思想書を読んだように思うが、全く身についていない。それは読むことが目的で内容まで入り込んで何かを得ようとする気持ちが無かったからだと思う。さらに著者の何たるか、生き方そのものを知らず読むから自身の生活感にも寄り添って来ない。著者を知る事は読むこと同じくらい重要である。安岡正篤は理解出来なくとも中村天風は身近に感じる。今頃になって村上春樹氏の著作を何冊も読んだが、殆どは期待通り(中には失望作もあるが)の内容で素晴らしかった。しかしその内にその比喩表現が段々重苦しくなり、この人の私生活は相当複雑なんだろうと、これまた勝手に解釈していたたまれなくなった。

文章を書く場合、やたら難しく表現する場合と、この人はこの程度の言葉で毎日を暮らしているのだろうかと思う場合がある。文章では無いがNHK-FMの放送大学を運転しながら聴くことがある。大学の先生の講義であるが、これでもかと複雑に回りくどい表現が多い。10分くらい聞いていても何を言いたいのかサッパリ理解できない。難しい表現を駆使するほど講師の浅さが耳につく。この講師が釣り場で隣に座ってよもやま話のついでに同じことを喋ればもう少し理解できるのであろうが。

やはり本というのは著者の生き方が裏打ちされて居ないと迫力が無い。特に哲学や思想の分野では。