ミルがシルに事情を話していた頃、チルは夢子と宇宙船にいた。
「本当にこんな事が起きるなんて、夢のようだわ。」
夢子は名前の通り、夢見る瞳で窓外に見える小さな青い地球を眺めていた。
ここは艦内にあるチルの自室である。
こうやって夢子が実際に宇宙から地球を眺めてみると、彼女が常日頃考えていたより深く美しい群青色である。
何故このような事になってしまったのだろう、夢子は考えていた。
事の次第はこうである。
一昨年の2人の出会いから、彼女達の高校の同級生を伝にして、
チルこと富士雄は大学の後輩にその仲を取りもってもらったのだ。
知性派のチルの事、書類や履歴の偽造工作はそう訳なかった。
その後はそれとなく大学や下宿、学生の間に紛れ込み、彼は如何にもその年代の学生然と暮らしてみせていた。
お陰で夢子とはすんなりと出会いの年の冬休みから交際をスタートさせた。
流石にチルは超エリート士官である。
同期の中では群を抜いて優秀なミルでさえも、まだ初子にたどり着けないでいる中、
艦内では知性派のチルで通っていただけに、こんなに行動力もあったのだとミルを驚かせていた。
さて、2人が交際をスタートさせた頃、
ミルの方は高校の名簿を手に入れるべくまだ彼女達の母校に忍び込んだままだった。
案外凝り性のミルは校舎内で、名簿の書類以外の彼女達の知識レベル、
その他資料、教材にも目を奪われてしまった。
各教室、施設など覗き、地球人の隙を見ては学校内をうろつき回っていた。
その後は他の教育施設を巡り、設備内に籠っては、彼女達の文化レベルの学習に興味を募らせていた。
彼は本来の任務を忘れていた訳ではない。ちゃんと初子の調査もしていた。
ミルが困った事には手に入れた彼女の名簿に同名の生徒がいた。
どちらが本人か特定してから、彼女のロマンチックな嗜好などもきちんと下調べして、
漸く一年後の夏に同じ海岸での出会いをセッティングした。
同日同時刻に同じ場所で出逢うのだから、それこそロマンチックな再会といわねばならない。
初子はこれだけで十分、鷹夫ことミルに恋心を持つに至ったが、
彼女が親しく話してみると、その彼の学識の深い事に益々尊敬の念を抱き、今や運命の絆を感じていた。
自分の将来の伴侶は彼以外に無い、というような現在の彼女の惚れ込みようだった。
さて、チルと夢子に話を戻そう。
ミル達2人に比べて早々にスタートを切ったチルと夢子、交際の深まりも早かった。
チルは就職活動、卒論作成と偽っては母船に戻り、彼女との交際経過をリポートにまとめていたが、
地上での足の着いた血の通った様な彼女との生活が、
これまでの宇宙空間での無味乾燥とした、旅行の様な生活が長かったチルにとって、
故郷の家族を思い出すような、非常にかけがえの無い心温まる生活となってしまった。
そして、ある日、チルはとうとう彼女と異種族の間の一線を越える事態に陥ってしまった。
しかし、彼女との間は彼にとってリサーチ中の実験のような物、決して真実の恋愛ではない。
そう思うと、チルは彼女への後ろめたさから別れを切り出し、そのまま直ぐに宇宙へと戻ったのである。
研究対象だった事を夢子は知らない。
自分の正体を知られる前にチルは調査を打ち切ったのである。
エリートらしからぬ落とし穴にはまってしまったチルは傷心の体であった。
さて、意外な事に、事態は2人の別離で収まらなくなってしまった。
何故なら、別れた直後に夢子は自身の体に体調の異変を感じたのである。
まさか、もしかしたらと思ったが、彼女の予想は当たっていた。
彼女の中に富士雄との新しい生命が宿ったのである。当然彼女は困惑した。
慌てて富士雄に連絡をとろうとしたが、どういう訳か彼と連絡がつかない。
如何しようか、1人でも子供を産んで育てようか、如何したらよいかと迷う内にその年も年の瀬となった。
夜、煩悩を払う除夜の鐘がボーンと響いて来た。
その鐘の音を聞く内に、自身に芽生えた生命への愛情から彼女は母となる決断を下した。
否、それは彼女の富士雄への断ち切れない愛情が下した結論であったかもしれない。
こうして1人で母となる決意をして夢子は新しい年に臨んだ。
1人愛する富士雄さんの面影を胸に、その年生まれて来る子と共に生きようと決めたものの、
この先の母子の生活を思うと、やはり彼女は不安になり涙ぐんでしまうのだった。
そんな時に初子と共に来た咲花神社の初詣で、思いがけず富士雄に似たチルを見掛けたのだ。
彼女は最初富士雄に似ている人と思い、いや違うのだと心に打消し、
後に、しかしそれでもそれはやはり富士雄だと感じたのである。
確かに、それは実際に富士雄であるチルであったから、夢子の判断は正しかったのだ。
シルとミルから離れ1人宇宙船に戻ろうとして、チルがお札販売所の表にやって来た時、
反対側から急いで回り込んで来た夢子に捉まり、一瞬、その彼女の一心に彼を見つめる愛くるしい面差しに躊躇したチル。
暫し彼女の話を聞く内に、彼女に宿ったその新しい生命の事を彼は衝撃的に知ったのである。
こうなると、彼も到底地表にこのまま彼女を放って置く事など出来なかったのである。
そこでチルも、手短に彼女に自分が異星人である事を話すと、
その場から2人でこの宇宙船へと急ぎ戻ったのである。
チルは今、夢子を1人艦内の自室に残すと、艦長に事の次第を説明する為に出向いているところだった。
艦長は夢子と富士雄との仲を許してくれるだろうか?
彼女が艦内に留まる事を許可してくれるだろうか?
この先2人の子供は無事生まれる事が出来るのだろうか?
そんな事を不安に思いながら、
夢子はドアの外に富士雄が戻ってくる足音が聞こえて来るのを、耳を澄まして静かに待っていた。
室内の窓の外には地球、そしてその向こうには底知れぬ深淵な宇宙空間が広がっている。
その遠く果てし無い場所、見ず知らずの先に彼の故郷があり家族もいるのだろう。
自分が想像さえ出来ないそんな彼方から、彼がこの自分が生まれた地球という或る1つの星に来たのだと思うと、
夢子は想像を絶する距離の彼方で生まれた2人が此処で出会い、
彼女のDNAが選んだ彼、また彼のDNAが選んだ彼女、という壮大で不思議な巡り合わせに、
奇跡的な、そして太古からの必然的でさえあるような、奇妙な古の絆を感じるのだった。
(初詣、終わり)