初子がミルと再会を果たし、夢子にその事を電話で話してから10日程してから初子の家に電話が掛かって来た。
ミルこと鷹夫からだったが、彼は大した自己紹介の仕方もできなかったらしい。
しかも、電話に出たのは初子の父だった。
父はハイハイと電話で話していたが、不快とも何とも言わず、
受話器を手に目の前の空間にまだ見ぬ電話の相手の主を想像したり、
また、時折、部屋の向こうでテレビを見ている自分の娘である初子を眺めたりしていた。
2回目の電話が掛かって来た時になって、漸く初子の方にミルからの話を通した。
「おい、お前、たか何とかという物を知っているか?」
たか何とか?初子には思い当たる人がいた。鷹夫の事である。
如何いう訳か初子の耳には「たかお」の「お」の音が聞き取り難かったので、
夢子と彼の事を話題にする時には「たか何とか」さん、で通していた。
夢子の方は普通に鷹夫さんで話していたが、この夢子の音も初子には聞き取りにくかった。
「知っているわよ、去年と今年に海で会った人よ。」
初子は父に返事をした。
父は受話器に向かって、知っているそうだよと返事をしていた。
父の様子はまんざら嫌な感じでも無いようだ。
態度もやや遜った感じで、初子にすると父が商売の取引先にでも電話しているように感じたものだ。
そして、この父の受話器の向こうの相手が鷹夫だとピンと来た。
その年の夏に彼と再会した時に、今度はきちんと自分の電話番号を教えて置いたからだった。
向こうから家に電話が掛かって来ても不思議では無い。
その後、父は受話器を置くと、彼女の傍にやって来て言った。
「いやぁ、向こうがきちんとした名前より、たか何とかの方がお前が分かるだろうと言うから…」
確かに、初子にとってはそうだった。この時父から鷹夫という人から電話だと言われても、
彼女はきっと誰だろうと思ったに違いない。
ああ、あの人だとにこやかに鷹夫の顔を思い浮かべると、父はその初子の顔を見ながら、
世の中一体全体何が如何なっているのだろう、というような、一種信じられない表情を浮かべ、娘からは顔を背けつつ、
お前電話に出てみるか?とだけ聞いた。
普段ならとんでもない、如何してお父さんの方で電話を切ってしまわなかったのか、と頗る機嫌が悪くなる初子だが、
その時の初子は当然、ええと言って電話に近寄ると、もしもし代わりましたと受話器に向かって話し始めた。
父はその何時もと違う娘の様子にも、何やら信じられない物、稀有な物を見るような眼でいた。
その目のままで彼女の仕草の後を追っていたが、背中に目が無い初子にはその様子を知る由もなかった。
「たか何とかです、お父さんに聞かれましたか?」
受話器から、確りした男らしい声が聞こえてきた。
初子は彼の声だと思う、ええ、たか何とかさんでしょうと答える。
ここで鷹夫は確りと「たかお」ですと発音する。
初子も受話器のおかげで漸くたかおという言葉を聞き分ける事が出来た。
はい、たかおさんですね、分かりました。そう言うと鷹夫は嬉しそうに、
「僕たち交際しましょう。」
と言う。
ね、交際してくれますか?こう聞いてくる鷹夫の声のバックが何やら賑やかで騒がしい。
彼と同年代の男性らしい複数の声、それも何処か飲み屋か何かで皆で盛り上がっているらしい雰囲気が感じられる。
時間も夕餉の時刻をまわる頃である。
『ははぁん、仲間同士で飲んだ余興に、勢いで自分の好きな子に電話して、
交際OKか振られるかで盛り上がっているんだな。』
初子はピンと来たものだ。
内心ウフフと彼の事を微笑ましくなる。
昨年の夏も今年の夏も彼に対して彼女が思った事だが、
気真面目で上がり症、女生とは殆ど話せない口下手な人、無口なだけに頭の良い、話すと話題の奥深い人かな、だった。
それで、皆の前で、多分周りの皆は彼の事を女性とは縁遠い、モテることの無い人と思っているだろう、
と彼女が思うと、ここは彼に花を持たせてやろうと思うのだった
そして、実際に彼女は気真面目な彼の事を気に入っていたので、
「ね、いいでしょう?」
彼が再度こう言った時、初子はにこやかに
「OKです。交際します。」
と、はっきり答えたものだ。
OKだ、という彼の声と、わーという声、えーという驚きの声、やった―と言う声で向こうが大盛り上がりの中、
じゃあと鷹夫の声がしたと思ったら電話はそのまま切れた。
?
受話器を持った初子はあれれという感じだったが、何しろ相手は酔っ払いの集団と思うと、
明日の朝、当の鷹夫はこの事を覚えているのやら、と苦笑いして受話器をそのまま電話に掛けた。