十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

嘉納治五郎の苦労

2016-03-24 09:25:36 | 柔道
 明治、大正、昭和時代に判事、弁護士であった北井波治目氏の自叙伝の中に、柔道の創始者嘉納治五郎についての記述がある。柔道を広めるため講道館を創設、その間、計り知れない苦労されたと思う。
 嘉納治五郎の負債整理についてと題して次のような記述がある。
「 明治参拾七,八年頃鈴木克美先生の紹介にて嘉納治五郎先生の負債整理を委任せられ、先生の住宅を訪問し負債の状態を聴取せしに、先生は悠然自若として弘道館設立の負債弐、参万円と思うて居たが利に利が加わり七、八万円が拾万円以上ににもなり、公正で多くある為此通り差押へられあり、一切委任するが古山を指揮して処置して呉れとの事、予は之れを諾し債権者の数と金額を調べ、之れに対する弁済方法を立て尚先生に同情する人の援助を求め、壱割以上参割位の内払ひにて残額は無利息年賦とする方針にて夫れ夫れ各債権者を訪問了解を求めしに、意外にも先生の人格を認むる債権者多く、弐、参の高利貸しを除くの他数ケ月にして殆んど整理を完了し、或る月の末日先生自ら来り袴地壱反と金参拾円を呈せらる。額は小なるも本来師たる鈴木先生の親友にして人格高き人、将来の一大人物を救助する事予が本懐とする処、壱銭も受くる念頭なかりし、自来嘉納先生と親しく交際を継続セリ。」
 講道館は明治15年に永昌寺で誕生、その後南新保町、上二番町、富士見町、本郷真砂町そして上二番町と借家住まいで、明治27年に小石川下富坂にやっと百畳余りの道場を建設。この時の借金のことであろう。嘉納治五郎大系にも嘉納治五郎の「私の生涯と柔道」にも書かれていないことである。
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