毎日毎日片道2時間の通勤をしている現在、満員電車の連続なわけだが、最近の光景としては、やはり携帯、スマフォ等々をぎゅうぎゅうの車内でも見ている人が思いのほか多い事に気付く。携帯等が普及する前から文庫本や新聞を読んでいる人はいたわけだが、今ほど目立った人数はいなかったように思う。
私自身は、携帯なんぞを持つ手があったらつり革や手すりに掴まる派なので、どうにも携帯を後生大事に見ながら揺れに身を任せている人を見ると釈然としない。その半歩に満たないスペースを皆で我慢して譲りあい、揺れに備えてつり革手すりに掴まればもうちょっと車内も押し合いへし合いで肋骨がミシミシ言うような状況が改善されるんじゃなかろうか。
実際皆携帯やスマフォを見ていないと死んじゃう病気にかかっているんじゃないかと思ってしまう。
ああ、携帯ゲーム機は論外。
ただ、緊急時にやはり携帯のメールは便利であることは認めざるを得ない。人身事故等で駅にもついていない状態で電車が止まってしまったときなど、電話するために降りるわけにもいかず、車内で通話もはばかられる状態で、現場に一報を入れられるようになったのは、いい時代になったものだとも思う。
ただまあ、一心不乱にメールを打ったりしている光景を見ると、どうも緊急時に限らず日常的に知り合いと電車内でもコミュニケーションをとっているのだろうか。さすがに携帯を覗き見るわけにもいかないので、そのあたりは不明である。
メール以外にもチャットやオンラインゲームも嗜んだ事があるのだが、どうも文字だけのコミュニケーション
というのは誤解が生じ易い。
アメリカの心理学者アルバート・マレービアンの実験によれば、人が他人から受け取る情報の占める割合は以下の通りである。
・顔の表情 55%
・声の質(高低や抑揚)、大きさ、テンポ 38%
・話す言葉の内容 7%
つまり実に93%が言葉以外から情報を得ているということになる。俗に言うノンバーバルコミュニケーション
というヤツだ。
顔文字等はその非情に限られた伝達手段の中で編み出された手法なのではないだろうか。さらにはビジネスメール等も文章しかない状況で洗練されてきた手法だと思われる。つい報告や連絡等で文章が長くなってしまい、何を言いたいのか伝わらなくなってしまうのは、コミュニケーションは基本的に言葉以外で伝わる部分が大半を占めており、そのため文章だけで何かを伝えるには訓練が必要なのだ、ということを失念しているのだとも考えられる。
逆に会議等ではこれを逆に利用して、所謂「顔芸」で意思を伝えたり、場の空気を変えたりすることもやっている。ただし、貧乏ゆすり等のちょっとした動作でも悪い印象が伝わっていることを認識していないと手痛い失敗を被る事になる。「顔芸」は諸刃の剣である。
ただ、ノンバーバルコミュニケーションが情報伝達の大半を占める、というのは理に適っていると思う。そうでなければ赤子は言葉(ひいてはコミュニケーション)を覚えることができないからだ。
大人とのお互いの表情や声質で懸命にコミュニケーションを取る。そんな日々は誰にもあったはずである。だがしかし、大人になるにつれて大人同士のコミュニケーションは言葉に頼るようになり、やがて言葉も失くしていく。「察する」「空気を読む」というのは世知辛い世の中を渡っていくために必要なことかも知れないが、本当にコミュニケーションとして成り立っているのかは疑問である。
時には声にだして、全身で伝えなければならないこともあるのではないのだろうか。
某GLAYの「BE WITH YOU」に「疑いだしたらキリが無いから 僕達はいつのころからか本当の気持ちを言えず黙ることを覚えた」とある。
毎日を懸命に伝えようと過ごしていた日々はいったいどこに行ってしまったのだろう。そんな事をふと考えた今日この頃であった。
ん?英会話も案外全力のジェスチャーだけで97%いけるんじゃないですかね。>挫折した人
(刑事長)
私自身は、携帯なんぞを持つ手があったらつり革や手すりに掴まる派なので、どうにも携帯を後生大事に見ながら揺れに身を任せている人を見ると釈然としない。その半歩に満たないスペースを皆で我慢して譲りあい、揺れに備えてつり革手すりに掴まればもうちょっと車内も押し合いへし合いで肋骨がミシミシ言うような状況が改善されるんじゃなかろうか。
実際皆携帯やスマフォを見ていないと死んじゃう病気にかかっているんじゃないかと思ってしまう。
ああ、携帯ゲーム機は論外。
ただ、緊急時にやはり携帯のメールは便利であることは認めざるを得ない。人身事故等で駅にもついていない状態で電車が止まってしまったときなど、電話するために降りるわけにもいかず、車内で通話もはばかられる状態で、現場に一報を入れられるようになったのは、いい時代になったものだとも思う。
ただまあ、一心不乱にメールを打ったりしている光景を見ると、どうも緊急時に限らず日常的に知り合いと電車内でもコミュニケーションをとっているのだろうか。さすがに携帯を覗き見るわけにもいかないので、そのあたりは不明である。
メール以外にもチャットやオンラインゲームも嗜んだ事があるのだが、どうも文字だけのコミュニケーション
というのは誤解が生じ易い。
アメリカの心理学者アルバート・マレービアンの実験によれば、人が他人から受け取る情報の占める割合は以下の通りである。
・顔の表情 55%
・声の質(高低や抑揚)、大きさ、テンポ 38%
・話す言葉の内容 7%
つまり実に93%が言葉以外から情報を得ているということになる。俗に言うノンバーバルコミュニケーション
というヤツだ。
顔文字等はその非情に限られた伝達手段の中で編み出された手法なのではないだろうか。さらにはビジネスメール等も文章しかない状況で洗練されてきた手法だと思われる。つい報告や連絡等で文章が長くなってしまい、何を言いたいのか伝わらなくなってしまうのは、コミュニケーションは基本的に言葉以外で伝わる部分が大半を占めており、そのため文章だけで何かを伝えるには訓練が必要なのだ、ということを失念しているのだとも考えられる。
逆に会議等ではこれを逆に利用して、所謂「顔芸」で意思を伝えたり、場の空気を変えたりすることもやっている。ただし、貧乏ゆすり等のちょっとした動作でも悪い印象が伝わっていることを認識していないと手痛い失敗を被る事になる。「顔芸」は諸刃の剣である。
ただ、ノンバーバルコミュニケーションが情報伝達の大半を占める、というのは理に適っていると思う。そうでなければ赤子は言葉(ひいてはコミュニケーション)を覚えることができないからだ。
大人とのお互いの表情や声質で懸命にコミュニケーションを取る。そんな日々は誰にもあったはずである。だがしかし、大人になるにつれて大人同士のコミュニケーションは言葉に頼るようになり、やがて言葉も失くしていく。「察する」「空気を読む」というのは世知辛い世の中を渡っていくために必要なことかも知れないが、本当にコミュニケーションとして成り立っているのかは疑問である。
時には声にだして、全身で伝えなければならないこともあるのではないのだろうか。
某GLAYの「BE WITH YOU」に「疑いだしたらキリが無いから 僕達はいつのころからか本当の気持ちを言えず黙ることを覚えた」とある。
毎日を懸命に伝えようと過ごしていた日々はいったいどこに行ってしまったのだろう。そんな事をふと考えた今日この頃であった。
ん?英会話も案外全力のジェスチャーだけで97%いけるんじゃないですかね。>挫折した人
(刑事長)









