「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

日本選手の欧州サッカー挑戦、これまでと、この先。

2017年09月14日 04時52分33秒 | サッカー選手応援
07-08欧州チャンピオンズリーグがスタートして、世界のサッカーシーンが一段と賑わいを増す時期になってきました。

かの小柳ルミ子さんのように、どのサッカーシーンもウォッチするほどエネルギーがない私は、最低限としてリーガ・エスパニョーラの5試合、つまりレアル、バルサ、アトレチコそしてエバイルとヘタフェの試合だけを追っかけています。

考えてみますと、今年こうやってスペインリーグだけを追いかけているというのも、時代の移り変わりを敏感に反映した結果かも知れません。そんなことから、「日本選手の欧州サッカー挑戦、これまでとこの先」というテーマで書いてみたくなりました。

「日本選手の欧州サッカー挑戦」という話になる時、必ずあがるのは「奥寺選手以来」という枕詞(まくらことば)です。でも、私はJリーグ以前を「紀元前」という言い方で分けたいと思っています。

つまり奥寺康彦さん、尾崎加寿夫さん、風間八宏さんといったブンデスリーガ組を「紀元前」の選手として脇において、カズ選手に始まるJリーグ以降、すなわち「紀元後」からの選手を取り上げたいと思います。ご了承ください。

Jリーグスタート直後のカズ選手の時代、日本人選手にとって海外とは「挑戦できる立場になることに意義がある場」だったと思います。そして当時、世界最高峰のリーグとはイタリア・セリエAでした。プラティニ、マラドーナ、ルート・フリット、ローター・マテウス・・・。スーパーな選手はことごとくセリエAに集結していました。

そこに挑戦できる立場になることは、日本のサッカー選手にとって当時「憧れ」だったと思います。そこにカズ選手が挑戦できてから、中田英寿選手、名波浩選手が続きました。

1998年に日本が初めてW杯の舞台にたつと、今度は海外挑戦の幅が広がってきました。城彰二選手、西沢明訓選手はスペイン、小野伸二選手はオランダ、稲本潤一選手はプレミア、高原直泰選手はアルゼンチン経由でブンデス、中村俊輔、柳沢敦、小笠原満男らの選手がセリエAといった具合です。

西暦2000年すなわち21世紀に入ると、次第に世界最高峰のリーグとはイングランド「プレミアリーグ」だ、と言われる時代に入ります。サッカービジネスがビッグビジネスとして注目され始め、その舞台がプレミアリーグだったことも影響していると思います。

ですから、この頃の日本にはプレミア以外はワンランク、レベルが落ちるリーグなのに、あえて海外挑戦に意味があるのか?、といった議論も出始めました。高原直泰選手のように、日本で「エコノミークラス症候群」と呼ばれた、航空機移動の多い人たちに見られる難病のような症状に見舞われる選手も出たことも影響しています。

つまり極東の日本と欧州という地球半分の移動をたびたび強いられる日本代表クラスの選手にとって、欧州で戦い続けるということは、計り知れない負担になるということも知られるようになったわけです。

けれども2006年ドイツW杯で日本が惨敗すると、再び「海外リーグで揉まれないと日本代表は強くならない」という議論が高まり、むしろ日本選手がすんなりと入っていけるリーグを選ぶべきではないか、という声とともにブンデスリーガへの移籍が加速するようになりました。

つまり奥寺、尾崎、風間各選手の時代から四半世紀を経て、再びブンデス回帰の流れがきたわけです。長谷部誠選手、内田篤人選手、香川真司選手といった選手たちのことは、もう誰もが知っています。

一方では、まず欧州の手ごろなリーグで活躍して、いわば小さなショーウィンドウではあるけれど欧州のショーウィンドウであれば、強豪クラブのスカウトたちの目に留まる機会も多いので、そういうルートも一つの道だという考え方も広まってきました。

本田圭佑選手がオランダのVVVフェンロから、吉田麻也選手も後を追うようにVVVフェンロからキャリアをスタートさせています。GKの川島永嗣選手はベルギーのリールセから欧州のキャリアを始めています。

そして彼らは、狙い通りに四大リーグといわれるリーグへの移籍を果たしています。

長友佑都選手のように「ボクは世界最高のサイドバックになるため、あくまでセリエAで挑戦する」といって、チェゼーナに移籍した例もありますが、この時期、少数派でしたね。

時代が2010年代に入ると、世界最高峰のリーグの舞台はスペイン、リーガ・エスパニョーラに移っていきます。スペイン代表がEURO2008、2010南アW杯、EURO2012と3大会制覇したこと、同じ時期に、ペップ・グアルディオラ監督率いるバルセロナが魅惑のサッカーと言われるスタイルで世界を魅了したことなどによるものです。

したがって、多くの日本人選手たちも「いずれはスペインでプレーしたい」と口にするほど憧れのリーグになったと思います。けれども、かつて城、西沢、大久保嘉人選手らがスペインに挑戦して、うまくいかなかったわけで、スペインで戦うには独特の難しさがあるということが、彼らの経験によって生かされ始めました。

ですから、いまスペインに渡ってサッカーをしようと思えば、その難しさを克服することが必須条件である、ということを承知の上で渡ることになります。

いま乾貴士選手や柴崎岳選手が、やっと成功の兆しを見せ始めているのも、そうした先達の日本人選手たちによって受け継がれた経験の賜物といえると思います。

いま、この二人は世界最高峰のリーグでの「第一段階」を歩んでいるところです。まず第一段階で成功を収めることができれば、第二段階に進めるというところです。

かつて、中田英寿選手も中村俊輔選手も、ペルージャ、レッジーナといった第一段階での成功は手にしました。しかし第二段階には進めなかったと思います。ACミラン、インテルあるいは他のリーグのビッグクラブに引き抜かれるところまでは行かなかったと言えます。

確かに中田英寿選手はASローマでスクデットを獲得できました。そのことをもって「成功を収めた」と言っていいのかも知れません。けれども、私は、中田英寿選手自身には、それほどの達成感はなかったように思います。チーム内での彼の立ち位置は、フランチェスコ・トッティという絶対的なエースの次のセカンドチョイス的なものではなかったでしょうか。

また、長友佑都選手はインテル、本田圭佑選手選手はACミランという名門チームでプレーする機会を得ましたが、これらのチームは、今、欧州全体の中では中位レベルの評価しか受けていないチームであり、いわば欧州挑戦の第二段階で成功を収めたとは、なかなか言い難い状況にあります。

さらに、香川真司選手がドルトムントからマンチェスター・Uへ、これこそ「第二段階」か?と、色めき立ちましたが、うまく行きませんでした。

つまり欧州挑戦における第二段階というのは、たとえスタートが「プロビンチャ」(地方(日本風なら田舎)の弱小・中堅クラブ)であっても、最終的に世界最高峰のリーグのビッグクラブに引き抜かれ、そこで押しも押されぬレギュラーを張れることができた時だと思うのです。

いま日本選手は、そこを目指すところにきたと言えます。乾選手や柴崎選手に続き、リーガ・エスパニョーラのプロビンチャで活躍できる選手は生まれると思います。けれども、そこからレアル、バルサ、アトレチコといったクラブに引き抜かれる選手を見るまでには、まだ時間がかかりそうです。

ただ「この先」について言えば、別なルートから一つの可能性が見えてきたことも事実です。バルサ育ちの久保建英選手、レアル育ちの中井卓大選手という未来です。
もし彼らが、いつの日か、バルサやレアルの一員として、リーガ・エスパニョーラのプリマベーラ(一部リーグ)を戦う日が来たならば・・・と、夢見ることはできます。

おそらく彼等も、一旦プロビンチャにレンタルされて、そこで力をつけて呼び戻されなければならないのではないかと思います。さらには仮に呼び戻されて、バルサやレアルの登録メンバーになっても、いつもスタンド観戦、せいぜいベンチ入り程度では意味がありません。

彼らが24~27歳あたり、キャリアのピークを迎える時期にバルサ、レアルに呼び戻されることができれば、私たちは日本選手の欧州挑戦における「第二段階」の成功を目にすることができるかも知れません。

久保選手にしてあと7~8年先、中井選手の場合は、あと10年以上先の話です。楽しみはまだまだ先にあります。私はその頃何歳になっている? いやいや賀川浩大先輩のような方もいらっしゃいます。賀川浩先輩から見たら私たちは、鼻たれ小僧もいいところです。

では、また。
コメント
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