シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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私も見ました__液晶を開発した RCA 取材番組

2008年09月13日 | テクノロジふ~ん
写真は、液晶の発見者 (図1) と、諏訪精工舎の液晶時計。
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記事中に、「1968年末に NHK が David Sarnoff 研究所の Heilmeier を取材したときに、黒板に書かれた液晶成分を撮影していた」とあります。
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「液晶ディスプレイ誕生秘話(第1回)」(8月8日 日経エレクトロニクスが目撃した電子産業・歴史の現場) _「研究開発とはすべて人がやるもの」。 液晶ディスプレイの基礎を築き上げた科学者・技術者との交流を通して強く感じることである。 研究開発には,その時代の技術進歩とともに,そこに携わった人々のドラマがある。こうした開拓者の熱意なくして,実用化に結び付くことはない。
 
筆者は,液晶の基礎を築いた世界の37人の科学者・技術者と,交流を続けている。 こうした交流や近年のインタビューの記録を基に,液晶ディスプレイの黎明期の姿を当時の逸話も交えて明らかにする (※追加1 全文へ続く)。
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黒板のシーンは覚えていませんが、冷蔵庫に保管した 液晶成分の入った小瓶を撮影したシーンは記憶にあります。 但し、成分のラベルは向こう側にして分からないように撮影していました。 シャープの人はこれを見て、小瓶の色から液晶成分を推定したといわれていたようですが。

当時、よくこんな研究室の機密を見せるなんて、アメリカは太っ腹だわいと感心して見ていました。 今では考えられないことですね。
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「1971年ごろから米 Timex 社、米 Optel 研究所、米 Microma 社などが相次いで液晶搭載の腕時計に参入した。 しかし、製品は信頼性に欠け、たちまち動作しなくなった」とあるのを読んで、マイクロマの腕時計も思い出しました。

この会社はインテルの子会社で、73~74年頃 会社の先輩諸氏が出張でカリフォルニアへ行くと、自分への手みやげによく買ってきて見せびらかしていたものです。 インテルを訪問した時に見せられて、買い求めたんでしょう。

但し、半年か1年くらいで表示が出なくなるのが普通で、特に冬場は表示が出ず、表示させるには常に腕に装着して体温を伝えていないとダメなシロモノでした。 当時 10万円くらいもする、高価なオモチャでした。 レートは ¥300/$1 くらいだったでしょう。

夜の飲み会などで、買ってきた先輩が見せつけて、腕から外してみんなに触らせていたものです。 私もへーと思いましたが、月給の倍近くもするんじゃ、とても買えないと諦めていました。 今じゃ100円ショップでデジタル・ウォッチが買えます。 この間の工業技術の発達は素晴しいですね。

以上

※追加1_ ■ 液晶の始まりは植物学者による発見 ■
1888年,オーストリア (※) の植物学者 Friedrich Reinitzer は,植物から採取した液体が 145 ~179℃ の間で白くにごる現象を発見した。 ドイツの物理学者 Otto Lehmann がその液体を調べたところ,複屈折性を示すことが分かった (図1)。 複屈折性はそれまで結晶にしか見られたことがなく,複屈折性を持つ液体の発見は初めてだった。そこで,この材料は「液体と結晶との両方の性質を持つ」という意味で「fliessende krystalle」と名付けられた。 これが「液晶」という名称の起源である。

それから約80年間,液晶を研究対象としていたのは英国 Faraday 学会などの学者だけだった。 従って,当時は「電子表示に使える」とは夢にも思われていなかった。 応用といえば,米Westinghouse 社がカラー表示の温度計に使った程度だった。 ※) 原文ではオーストラリアとあったが間違い。

■ DSM を発明した二人の科学者 ■
液晶が表示に使えることを発見したのは,米 RCA 社の David Sarnoff 研究所に勤めていた George Heilmeier である。 同氏がゲスト・ホスト・モードに続き DSM (dynamic scattering mode) を発明したことで,液晶は表示装置に使われるようになった。

しかし,Heilmeier ひとりでは DSM は発明できなかっただろう。 DSM の発明には,1962年の Dick Williams によるウイリアムス・ドメインの発見が大きく寄与している。 同氏は,ネガ型液晶を2枚の透明電極で挟んで電圧をかけると,後にウイリアムス・ドメインと呼ばれる特有のパターンを示すことを見つけた (図2)。 それから2年後,このパターンを発生させるための印加電圧を高くすると,液晶が散乱状態になり白く反射することを,Heilmeier が発見した。 これが DSM の発見である (図3)。

当時,Williams と Heilmeier は,米国ニュージャージー州プリンストンの David Sarnoff 研究所に勤めていた。 川向こうのレビットタウンから一日ごとに,互いの自動車を使い相乗りして通勤していた。 ある日,Williams が 車の中で自分の発見について話したところ,Heilmeier が急に興味を持ち,研究テーマをマイクロウエーブ半導体から液晶に変えてしまったという。

■ 世界を動かした「夢の壁掛けテレビ」 ■
当時の液晶材料はネマチック温度が常温より高かったため,製品化のためには常温で動作する材料が必要とされていた。 この開発に貢献したのが,Joel Goldmacher と Joseph Castellano である。 二人は,常温で使える,シッフ・ベイセスと呼ばれる液晶材料を発見した。

当時,これらの発明については,開発を進めていた RCA がかん口令を敷いていた。 そして同社は1968年5月,米国ニューヨークのロックフェラー・センターで鳴り物入りの記者発表を行い,世界をあっと言わせた。 これによって,液晶を使って薄型ディスプレイが実現可能であることが世界中に知れわたることになった。 このころ同社の Heilmeier は,「夢の壁掛けテレビはほんの数年で実現する」と言った。 これをキッカケに,日本・英国・スイス・ドイツのディスプレイ研究者が液晶開発に一斉に参入,世界的な開発競争が始まった。

以下略

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