ヤッセンボの七目八目 (By 鈴木ジョージ)

情報・通信の世界に半世紀以上います。擬科学の横行には??です。世情の動きにも切歯扼腕することがあります。

B29や 特攻の基地とも縁があった いろいろな思い出はあるが・・

2017-08-13 21:10:26 | Weblog
13日夜、池上彰さんの、神風特別攻撃隊(特攻、神風)の話が、テレビ東京で放映されている。

終戦の前年、昭和19年10月25日が、第1回の出撃だった。250キロ爆弾を抱えて、米韓に突っ込んだ。
当初、米側の予想外の攻撃だったので、成果があがった。関行男大尉が隊長だったが、操縦の指導教官だった。
優秀なパイロットを投入した。時を経ると、操縦をやっとおぼえた隊員や、練習機を使うなど、機材・人員も苦しいことになった。

パイロットを含めて、人は“消耗品”が日本軍の考えである。戦場はアジア全体に広がったが、補給なく「大和魂」で戦い、「捕虜になるな」、「死」が美徳だった。
現実には、餓死、戦病死が戦死者の大半であった。

昭和21年から、3年間、特攻基地のあった鹿屋に住んだ。飛行場の隅に、からいも(サツマイモ)、ピーナツを植え、飛行機の残骸・えんたい壕で遊び、使えるモノを外した。

パイプでつくられ、布で覆った練習機が、特攻に使われたなど、マトモに戦えるとは思えなかった。

終戦の年に、鹿児島で中学生になったが、学校では防空壕に入っていることが多かった。市内は、9割方、焼け野が原である。

B29が来ても、迎え撃つ飛行機はない。時々高射砲の音がしても、遙かに下で爆発する。日本の航空機・高射砲は、B29の高度までは届かない。

ただ、日本の軍艦はほとんど健在なので、いつか反撃すると期待した。「大本営発表」のおかげである。じつは、ほとんど存在していなかった。

校庭で、“竹槍の訓練”をして、これでは勝てそうもないとも思った。

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