鐘馗(しょうき)さんと名城めぐり&好古揮毫石碑紀行

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電動自転車サイクリング 7

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 7
 
三津浜地区は、戦災にあってなく(松山の空襲は昭和20年7月26日)古い家屋が残っており、登録有形文化財(文化庁)指定の家屋が数件ある。
その内の木村邸では、第2・4土曜日・日曜日に一般公開している。
さて、帰りは旧海軍松山航空隊の跡地を通り帰る事にした。

昭和19年に海軍は、源田実海軍大佐に最強の航空隊を造るよう命じた。
源田実海軍大佐は、ドイツ空軍を参考に世界最強の航空隊を結成すべく横須賀で編成した。現地は松山市がいいとして基地を海軍松山航空隊においた。

昭和19年12月源田大佐司令官松山基地に赴任、搭乗員120名整備士その外総勢3000名の編隊で、「零戦」はもとより新鋭機「紫電改」が配備され集団戦法の訓練が行われた。
飛行隊は、三四三航空隊(別命 剣道隊)司令 源田大佐、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)戦闘七○一飛行隊(維新組)偵察第四飛行隊(奇兵隊)戦闘四○一飛行隊(極天組)と編成とある。(松山市発行の、松山城は残ったより)
しかし事態は急変し集団戦法の訓練もそこそこに米機動部隊が早くも察知松山飛行場を攻撃、沖縄上陸作戦に先立ち四国上空で多数の米機と松山上空で大空中戦が行われた。

私も幼心に覚えている、印象に残っているのは、真っ黒な艦載機、グラマン機がきて機銃射撃をされた事を。

現在、松山航空隊のあった入口に画像の記念碑が建立されている。傍には碑文もある。
急変した状況下軍は、特別攻撃隊を編成、志半ばにして特攻隊に命令された隊員は鹿児島県の鹿屋基地・知覧基地にと配属され帰らぬ人となった。

現在松山空港は2000m級の滑走路を有しジャンボ機が離着陸出来、市の中心部から僅か15分で行ける地方空港は松山市のみである。
これは、戦前あった海軍松山航空隊の滑走路を基盤にして海上と陸地部を拡張して出来たものである。

また、源田実氏は、松山が何故好きだったのか亡くなるのも松山市の病院でなくなった。それも不思議に8月15日終戦記念日に。(明治37年8月16日生まれ平成元年8月15日 享年84歳)現役時代源田サーカスと言われた名パイロット

画像は、松山航空隊のあった入口に建立されている記念碑。
若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃでかい希望の雲が湧く・・昭和18年作曲された予科練の歌
作詞:西條八十
作曲:古関裕而

この若い予科練の皆さんの魂が未だこの記念碑に籠められている。

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電動自転車 終戦記念日 予科練の歌 特別攻撃隊 三四三航空隊 登録有形文化財 ドイツ空軍
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