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石手川散策 2

2011年10月12日 | 伊予松山歴史散策
石手川散策その2です。
今日の石手川散策は、立花橋から重信川に合流する出合いまでの散策。

加藤嘉明が松前城から松山城築城に先駆け普請奉行足立重信に石手川(湯山川)の拡張付替え大改修を命じ暴れ川を新田開発と城下町の建設を構築してから411年になる。更に氾濫をなくするために改修を行って来た。

先人達が努力して築き挙げた石手川、それでも大きな雨台風、梅雨時の大雨では幾度か被害が出ていた(堤防決壊までには至らず、しかし橋桁が流れたり堤防が抉られた事があった)。そのために昭和48年3月に石手川上流にダムを造った。水害と松山市民の水瓶として・・
石手川ダム散策は次回にする。

さお、参考までに岩堰橋から出合いまでの距離を計測してみたら、8,1Kmありました。
では、立花橋から散策を続けよう。


立花橋から歩きはじめてから目に付くのが鉄橋である。
伊予鉄道は石手川橋梁を利用して伊予鉄道横河原線の石手川駅を造って利用者の便宜を図っている。


左右の堤防にはいろんな記念石碑が沢山建立されている。
画像の如く慰霊碑や、句碑、農業用水取水堰竣工記念碑、偉人の顕彰碑等々。


末広橋から見た石手川、奥が上流立花橋。
この付近も昭和40年代台風による大雨で左岸の堤防が水流で抉られた。


昭和35年頃まであった愛媛県自動車運転免許試験場のコース。
画像に見えるのは運転試験コース。
学生時代自動二輪免許ここで取得した。二輪車は愛媛県警が使用していたキャブトン500CCの白バイであった。


慶長11年(1606)森宗勘が苦心の末考案して造り上げた「宗勘樋」。
石手川の下に埋樋水門を造り小野川の流水に成功した和泉村用水路。


秋山好古揮毫石碑 碑 文 :  追 遠 記 念 碑
場所、松山市和泉北三丁目2番3号泉永寺境内・・石手川右岸下(泉永寺橋右岸直ぐ下)
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。慶長11年)1606)森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」といっていた。


平成5年(1993)松山市は市街地南側の市坪地区に整備する公園内にスポーツ施設を整備する方針を発表した。こうして順次各種施設が整備され、平成12年(2000)に野球場、同15年(2003)には県営の武道場、同17年(2005)にはプール、競輪場が完成した。
松山中央公園は、野球場(坊っちゃんスタジアム、マドンナスタジアム)、テニスコート、運動広場、屋内運動場、屋外ブルペン、プール、多目的競技場(競輪場)、武道館などの施設があります。敷地は、松山中心市街地、松山空港からそれぞれ約4Kmの距離にあり、石手川・重信川及びJR予讃線の軌道に囲まれた三角地で、敷地面積は約53.4ha、公園の中央には「傍示川」が流れ北側に石手川、南に重信川が流れている。

画像奥に見える山々に石手川の源流がある。左の川が石手川。


石手川左岸に愛媛武道館がある。
武道館は愛媛県産の木材、菊間瓦、大島石、砥部焼などを利用して建設され、日本武道館や東京武道館と並ぶ日本最大級の規模です。
愛媛県武道館名誉館長は、山下 泰裕氏です。


武道館の南にある愛称「坊ちゃんスタジアム」正式名は、松山中央公園野球場で
両翼99.1m、中堅122m、3万人収容の観客席とナイター設備を備えた「野球王国」にふさわしい公認野球場で、プロ野球公式戦などが開催されている。
プロ野球選手のユニフォームなどが展示され、「の・ボールミュージアム」を併設され隣接地には、サブ球場「マドンナスタジアム」もある。


石手川に掛かる一番新しい橋「松山中央公園橋」松山で初めての斜張橋で平成9年10月完成。・・なお岩堰橋から石手川に掛かる橋は14の橋がある(鉄道橋梁含む)。


石手川はここで重信川に合流する・・「出合い」である。
重信川も慶長2年に当時松前城主であった加藤嘉明が普請奉行、足立重信に命じ河川の大改修を行った。
当時伊予川と言っておりよく氾濫していたので改修し、後に改修者の名前をとって「重信川」と河川名を変更した。
全国の一級河川に人の名前が付けられているのは非常に珍しい事である。


出合いにある子規の句碑
子規が東京で遊学中、松山の名所重信川と石手川が合流する出合い付近を懐かしい思いを起こしながらその早春の風景を詠んだもの・・「正岡子規と秋山眞之が語らいながら、故郷松山を懐かしんだのでは??」
明治25年6月17日松山の河東碧梧桐に宛てた手紙に「出合」と題して
「若鮎の 二手になりて 流れけり」として送られたとある。・・名句である。
石手川散策最後は、石手川ダムを予定。


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