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NHK大河ドラマ「真田丸」に関する城を辿る・全国の城郭の中最も完成された形を残す大坂城(復興天守第1号)その1

2016年10月15日 | 伊予松山歴史散策

大阪城新橋側から「ライトアップされた大阪城天守」。
三脚を使わず撮ったからブレている。

NHK大河ドラマ、豊臣秀吉が築城した大坂城、秀吉に関するドラマは沢山放映されたが、真田丸で初めて正式な呼び方をした。・・それは、小日向文世が演じる秀吉は、わしは「とよとみのひでよし」であると名乗った。
「豊臣秀吉」を「とよとみひでよし」と読むが、正式には「とよとみのひでよし」であると・・私は思う。

それは、天正14年(1586年)9月9日、秀吉は後陽成天皇から豊臣の姓を賜った。これにより「源平藤橘」に並ぶ「豊臣」という新しい氏(うじ)が創設された。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)・ 藤原道長(ふじわらのみちなが)・平清盛(たいらのきよもり)・源頼朝(みなもとのよりとも)、 何れも「の」がついている。
秀吉は「木下から羽柴・藤原・豊臣」と変わった。
そもそもなぜ「の」をつけるのか? それは豊臣が源、平、藤原、橘などと同様、天皇から与えられた「姓」だからである。

注:文中「大坂城」「大阪城」と表記しておりますが、江戸時代の文中表記は「大坂城」明治以降の表記には「大阪城」としました。
明治元年5月に大阪府が設置され、正式な府名表記に「大阪」の文字が用いられたとあり、それ以降大坂城は、大阪城と表記されるようになったと記述がある。


では、大阪城に入ってみよう。
先ずは、大手門から。
大手門は、高麗形式の門で、中は広い枡形があり、大きな櫓形式の多聞櫓門がある。
寛永5年(1628)造営で国指定の重要文化財である。


大手門の内側は、枡形で奥に大きな櫓形式の多聞櫓門がある。
多聞櫓門と千貫櫓そして続塀でもって大手を守る仕組みになっている。


進んでいくと高麗形式の桜門が現れる。
桜門は、本丸正面の入口で、天守が真正面に望まれる。
豊臣時代この付近に見事な桜並木があったので、桜門と言う名前が付けられたと言われている。


桜門を入ると正面に大阪城で一番大きな巨石「蛸石」が現れる。
大きさは、高さ5,5m 横部11,7m 表面積59.43㎡ 推定厚さ0,9m 推定重量約130屯。
産地は、備前犬島で岡山城主池田忠雄が築造したとある。


巨石「蛸石」を左に見ながら行くといよいよ3代目大阪城天守が見えて来る。
初代大坂城天守は、豊臣秀吉が天正11年(1583)築城開始、望楼型の5層6階で外観は黒漆塗りの下見板張で、壮大な天守を完成した。
大坂冬の陣、慶長19年(1614)、夏の陣、元和元年(1615)で落城。豊臣秀頼(23歳)、淀君(49歳)は自刃し豊臣氏は終焉した。


西側から観た天守。
2代目大坂城天守は、10年の歳月を掛け、寛永6年(1629)に築城完成、藤堂高虎の普請方の下、層塔型の5層5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であった言われている。屋根は銅瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32mあったと言われており、この事から江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。寛文5年(1665)落雷で焼失し、以後天守は創建されなかった。


3代目大阪城天守は、昭和3年、昭和天皇の即位の礼、御大典記念事業として整備が進められ、当時の大阪市長、関 一によって再建が提唱、市民の醵金により昭和6年に竣工した。
この市民の寄付には申し込みが殺到し僅か半年で目標額の150万円(当時)が集まったと言われている。
昭和以降、各地で建てられた復興天守の第1号である。
天守には、現存天守、木造復元天守、外観復元天守、復興天守、模擬天守、天守風建築物等々があるが大阪城天守は、復興天守である。


豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後85年を超え、最も長命の天守になった。
平成9年、国の登録有形文化財に登録されている。


極楽橋から観た天守。


極楽橋側から上がって来た場所から観た天守。
復興天守は、1層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。形も望楼型と層塔型の折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もあった。・・私も大阪と言えば、太閤殿下秀吉様だから豊臣形式の天守にして欲しかった。・・だが観光として観るには黒漆仕上げよりも、現在の天守は明るくて見栄えがしていいかも??、


天守入口で、中はいろんな資料を展示してある博物館である。


豊臣秀頼と淀殿らが自刃したと言われている場所に石碑が建立されている。
大坂城が炎上する中、豊臣秀頼と淀殿らが自刃したと言われ、場所は、山里曲輪で、刻印広場の所にある。


豊臣秀頼と淀殿らが自刃したと言われている場所に石碑が建立されているその裏面。


大阪城は度々行ったがスタンプを押印したのは平成20年4月14日であった。



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