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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第4番 円福寺

2013年02月25日 | 伊予松山歴史散策
1月31日結願寺、金比羅寺の巡礼を終え伊予13佛めぐり最後の霊場第4番円福寺に向かった。
国道494号線沿いにある金比羅寺から国道11号線に出て、松山市平井町から最近開通した県道か?市道か?松山市の横谷霊園横を経由して食場町に出て国道317号線で石手川ダム湖を通り藤野町の円福寺に着いた。
今回の霊場めぐりで一番長い移動距離で約20km位あった。

円福寺の近くには、両新田神社があり鳥居の社号碑「新田神社」を秋山好古が揮毫している。石手川ダムと円福寺の途中にある若宮八幡神社の社号碑も好古が揮毫している。
さて
永徳山 河野院 円福寺は、松山市藤野町甲87番地にあり、ご本尊は普賢菩薩である。
寺伝には、平安時代の貞観2年(860)第5代天台座主・安慧によって開かれた。南北朝時代、新田義宗(新田義貞の三男)とその従兄弟に当たる脇屋義治(脇屋義助の子)が当地に隠棲。応永12年(1405)夏、秋の両人没後二人の位牌を祀り、菩提寺となった。二人の所持した太刀、鎧、馬具等の遺品を伝え、創建当時には高福寺、薬師寺、弥勅寺等12の支院を持ち隆盛を極めた。

しかしながら円福寺を含む湯山地区一帯が南朝に加担した河野庶家・土居、徳能氏の領地であったことから、南朝滅亡後は大きく衰退し、その後河野家宗家の領地となった後の天文17年(1548)3月18日、河野通直が新田義宗、脇屋義治の二廟を建て「上新田」「下新田」と改めた。その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。

宝永元年(1704)11月伊予松山藩主・第4代松平定直が両人の没後300年祭を両新田神社と円福寺で行った。
明治28年(1895)暮には松山で中学校教師を務めていた夏目漱石が来訪。彼らの遺品を観賞し、詠み残した句「山寺に太刀をいただく時雨哉」の句碑がある。


国道317号線沿いに参道がある円福寺。新田の大きな石碑がある。
車をお食事処の駐車場に置かして頂き歩いて境内に行く。


円福寺の寺号石碑。


先ずは、本堂にお参りをして境内内を撮らせて頂いた。


本堂に置いてあるお印の札。


本堂左手にある庫裏と鐘楼、石像菩薩。


境内右手には先の大戦で戦病死された慰霊碑と石像菩薩。


本堂横に夏目漱石の句碑がある。「山寺に太刀をいただく時雨哉」
漱石は明治28年に松山中学の英語教師として赴任、子規と52日間共同生活をする中で短詩系文学に身をゆだね
文豪夏目漱石が誕生したのである。


子規は明治28年松山に帰った時漱石の下宿先に居候として入り込んだ。
画像は、正岡子規と夏目漱石が52日間共同生活(子規が居候した庵)をした愚陀物庵で、二階に漱石が、
一階に子規がそして何時も一階で句会をしていた。ここで漱石が文学の道に入る。愚陀物とは漱石の俳号である。
子規・漱石・秋山眞之は東京大学予備門時代の同級生で、子規・漱石は東京大学に進み、眞之は海軍兵学校に入学。
なお、画像の愚陀物庵は平成22年7月12日記録的な豪雨で松山城に大規模な土砂崩れが発生し全壊した。
現在松山市は再建地を検討中。


円福寺境内からみた藤野町。このような山間にお寺がある。


円福寺から東方800m上に「両新田神社」がある。秋山好古は鳥居の社号碑の揮毫をしている。


秋山好古が揮毫した「両新田神社」社号碑。


円福寺と石手川ダムの中ほどに「八幡若宮神社」があり、この社号碑も秋山好古が揮毫している。


八幡若宮神社の社号碑は、刻印が浅く殆ど読むことが出来ず宮司さんの了解を得て墨を入れて撮影した。


松山市民の水瓶「石手川ダム」この日の貯水は88,2%と標示があった。(1月31日)
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