原発問題

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『死の淵を見た男』<~避難する地元民~ 元大熊町長の回想> ※27回目の紹介

2016-03-14 22:22:00 | 【吉田昌郎と福島第一原発の500日】

 *『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。27回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 門田隆将

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第5章 避難する地元民

 元大熊町長の回想  P83~

 (前回からの続き)

 大熊町の町民は、大熊長役場と大熊中学校、そして大熊町総合スポーツセンターの計3か所のいずれかに集まるように指示され、3月12日朝、集合している。志賀家は、役場に向かった。

 バスには乗りきれんかったな、と志賀が言う。

「バスは8台ぐらい来たんだが、乗り切れんかったな。私ら役場に2時間ぐらいいたかな。寒くてな。もとのわしの部下の役場の職員が来たから、俺はこんな寒いところにいれねぇから、息子の車で避難すっとって言ったら、ダメだっていうわけなんですよ。それが最初の基本的な考えだったんでしょう。だけども、いま行って聞いてきますからっていうことで、本部だかなんか、事務所へ行って聞いてきてくれた。それで、いいそうですということになった」

 気をつけて行ってください-大熊町の若い職員にそう告げられた志賀家は、次男の運転するワゴン車に7、8人が乗って、大熊町を脱出する。すでに朝10時になろうとしていた。

 着の身着のままで、先祖の位牌も置いたまま故郷を離れた志賀にとって、避難生活がまさかこれほどの長期にわたるとは夢にも思わなかった。

「最初10キロ圏内からの避難と言っていたので、どうせ行くんだら、まず弟が婿養子に行っている葛尾村まで行くべって言って、そこに行った。そこで2泊半、いたかねぇ。そうしたら、避難の区域がだんだん拡大してきてね。葛尾村は30キロ圏内に入んだな。だからそこからも避難したわけだ」

 目の不自由な志賀は体育館での避難生活は、大きな負担になる。福島から娘の住む川崎、横浜で世話になりながら、いわきのアパートに落ち着くことができたのは、震災から3か月あまりが経過した6月下旬のことだ。

 そして2011年10月、志賀は避難先のアパートで傘寿(80歳)を迎えた。震災の日に津波に追われて家を出て以来、志賀は一度も家に帰っていない。

 命からがらの脱出となった志賀だが、今も両親やご先祖の位牌は置いたままである。もちろん、自宅の近くにある墓地にも、一度も行っていない。

 震災5か月後の8月に妻が一時帰宅した時、家の中でさえ線量計が「46」という高い数値を示し、何一つ「持ち出す」ことも許されなかった。

「ご先祖さまに家を守ってもらっている」

 志賀は、位牌が家を守ってくれている、と思っている。父親の33回忌も、同じ8月、避難先のアパートで位牌もないまま、菩提寺のご住職を招いてお経をあげてもらって済ませた。

 仮住まいの身では、いかんともしがたいのである。しかし、志賀は故郷である夫沢には、いつか必ず帰りたいと思っている。

「私は、あそこで生まれて、育っている。町内のどこでも、特に海岸付近なんかは、すみずみまで頭の中に入っています。うちは古いからね、墓地も2か所にあるんですよ。家から数百メートルのところです。国が本気になってね、除染を早くやって、帰ることができるようにして欲しい。あそこは、発電所ができて、だんだん変わってきたでしょう。仕事のなかった大熊町も、だんだん豊かになっていったんだ。その頃の風景をやっぱり思い出すんですよ」

 それだけに、すべてを変えてしまったあの大津波と、大きな放射能漏れを起こした原発のことが悔しくてしかたないのだ。

(次回は、 「地元記者が見た光景」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/3/15(火)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


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