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もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※5回目の紹介

2014-10-30 22:00:00 | 【原子力ムラの陰謀】

*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之

プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相

を複数回に分け紹介します。5回目の紹介


原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-

1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。

事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、

一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。

死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。

そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、

あまりにも生々しく記録されていた。

(P3「まえがき」から)

「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」

 2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。

  「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。

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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)

前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※4回目の紹介

第8章 もんじゅ事故「隠蔽」極秘記録と西村氏「怪死」の真相

◎西村氏が命じられた「ビデオ隠し」の調査

 ここまで検証を進めてきた「西村ファイル」には、旧動燃が仕掛けた「原子力ムラ」の”工作”の数々が赤裸々に記録されている。

 取材班はこれらの資料のすべてに目を通したが、ファイルは1996年1月12日でぷっつりと途切れていた。その翌日、ファイルの持ち主である西村氏が、都内ホテルの非常階段の下で変死体となって発見されたからだ。49歳という短い生涯だった。

 その「死の謎」を解く最大の鍵となるのが、使い古された茶色い革カバンだ。西村氏が長年、愛用していたもので、最後の宿泊先となったホテルの部屋に残されていた。いまも西村氏の自宅に大事に保管され、つややかな光沢を放っている。黒ずんだ持ち手からは、西村氏の手によくなじんでいたことがうかがえる。

 西村氏が亡くなった後、遺族の手にカバンは戻された。その中に、西村氏が死に追いやられた高速増殖原型炉「もんじゅ」事故をめぐる「極秘資料」が残されていた。


【ビデオ隠し問題】

 95年12月8日に発生した「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故。

 国際原子力事象評価尺度では「レベル1」の評価だったが、それ以上に日本の原子力政策に与えた影響は寛大だった。事故そのものの重大さに加え、動燃による「ビデオ隠し」が大きな社会問題となったのだ。

 当初、動燃は事故翌日の9日午後4時に現場を撮影したビデオ(「16時ビデオ」)を公表したが、それが実は計15分ほどのオリジナルを1分間に編集したものだと発覚。11日には、今度は4分間に編集したビデオを「オリジナル」と称して公開した。だが、このウソも露見し、20日にようやくオリジナルが公開された。さらに22日になって、科学技術庁(現在は文部科学省に統合)の立ち入り調査でそれ以前の9日午前2時に撮影したビデオ(「2時ビデオ」)の存在までもが明らかになった。次々と発覚するウソに、動燃の異常なまでの隠蔽体質が厳しく糾弾された。

 西村氏は21日、この問題の内部調査チームの副団長を命じられ、関係者への聴取を行なっていた。23日には、現場職員の証言によって新たに、「2時ビデオ」が撮影直後に動燃本社に届けられていたことを把握している。これにより、これまで「本社は2時ビデオの存在を知らなかった」としていた動燃の説明が真っ赤なウソだったことも判明した。

 動燃は理事長以下、本社幹部の責任が問われ、ますます批判にさらされながらも、ビデオ問題の決着を年明けの96年1月まで先のばししていた。1月12日、ようやく動燃が開いた会見で、西村氏は記者たちの前に姿を見せたが、動燃本社上層部が「2時ビデオ」の存在をつかんだ日を「1月10日」と、実際より2週間以上遅く説明した。

 その後、西村氏は翌日の出張のため都内のホテルに宿泊。そして13日早朝、非常階段の下で遺体となって発見された。部屋には遺書3通が残されており、警察は飛び降り自殺と断定した。

 西村氏の突然の死で、一連の動燃バッシングは沈静化。一方、動燃側の不可解な対応などに不審を抱いた西村氏の遺族は2004年に損害賠償請求訴訟を起こしたが、12年、最高裁で敗訴が確定した。


「もんじゅ」事故を契機に、日本が「国策」として推し進めてきた核燃料サイクルへの信頼が大きく揺らいだ。だが、事故そのもの以上に動燃の信用を地におとしめたのは、その後の「ビデオ隠し」問題だった。

 動燃は当初、ナトリウム漏れ事故を「事象」と説明していた。これが地元・福井県の自治体や市民から猛烈な反発を受け、「事故」と認めざるを得なくなった。都合の悪いことをとにかくごまかし、隠そうとする体質ー福島第一原発事故の直後に、政府が原発の爆発を「爆発的事象」と言い換え、東電がメルトダウンを2ヶ月も認めようとしなかった、あの状況とそっくりである。

 当初、「ウソつき動燃」との批判が飛び交う中、動燃の本社総務部次長だった西村氏は、内部調査チームの副団長となることを命じられた。妻のトシ子さんが振り返る。

「家で仕事の話をしない夫が、『とうとう、もんじゅの担当になってしまった』と、深刻な顔をしていました。上司の名前を挙げて『なんで自分にばかり仕事を押し付けるんだ』と珍しく怒っていた。そして『我が家の誰かが殺されるかもしれない。みんな通勤通学の途中に気をつけなさい』と言われて、嫌な予感がしたのを覚えています」

 西村氏らの調査チームは、年末から「ビデオ隠し」にかかわった職員らに事情聴取を行った。関係者60人からの聞き取り調査で業務は多忙を極め、徹夜になることも多かった。

「スーツがよれよれになったから会社まで届けてほしいという連絡があって、持っていったこともありました。電話で「家に帰らせてもらえない』とも嘆いていた」(トシ子さん)

 次第に疲弊してゆく西村氏。トシ子さんは心配でならなかった。

 カバンの中には、西村氏が調査したナトリウム漏れ事故とビデオ隠しをめぐる数々の資料が残されていた。その内容は後に”公式記録”として報告書などに記載されたものよりもはるかに生々しく、原子力ムラの隠蔽体質の縮図そのものだった。

※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、10/31(金)22:00の投稿予定です。

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