脱原発・放射能

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暴れる暗部 冷戦下の米人体実験「半世紀で被ばく2万人 遺族了解なく臓器を摘出」

2012-04-10 22:12:41 | 原発・放射能

暴れる暗部 冷戦下の米人体実験(上)
半世紀で被ばく2万人 遺族了解なく臓器を摘出

米国で1日、妊娠中に放射性物質入り錠剤を飲まされ、子供をがんで失った女性たちが、集団提訴に踏み切った。昨秋以来クローズアップされてきた「放射能人体実験」の暗黒の歴史は、法廷でも裁かれようとしている。米国家権力の非情さは、冷戦の負の遺産と片付けるにはあまりに重い。その真相に迫った。

氷点下20度に保存されて眠る人体に加え、人骨、骨髄そしてあらゆる臓器の標本群──ワシントン州シアトルから東へ約350キロの小郡市スポケーン。ワシントン州立大学の管理するモテル風の建物の内部は物言わぬ被ばく者の「霊廟(れいびょう)」だった。
米エネルギー省(旧原子力委員会)の委託で、過去半世紀の核兵器工場での破ばく者、人体実験の被験者などから摘出、保管されている2万人分の「遺品」を識別するのはケース番号だけ。20年近く核汚染を追う地元紙記者、カレン・スティールさんは言う。
「遺族の了解もなく臓器を摘出されたケースが大半。しかも遺族が賠償訴訟を起こすたびに最大の証拠=臓器=が消えてきた」
亡霊のようによみがえる放射能人体実験。それは昨年11月、一地方紙記者が、6年がかりの取材で、被験者の身元を突き止め、報道してからだ。例えば、コード番号「CAL1」のアルバート・スティーブンス氏は「余命半年の胃がん」との診断後、「大量のプルトニウム」を無断で注入され、4日後、胃の大半と肝臓を摘出、持ち去られた。そして胃がんは単なる腫瘍(しゅよう)と判明する。
もっとも、86年に米下院エネルギー・商務小委員会は、このプルトニウム注入を含む放射能人体実験31例の概要を公表している。この資料公開は全容の一端を示したに過ぎないが、その内容は実験の異常さを十分に伝えている。
▽オレゴン、ワシントン州の囚人131人の精巣にエックス線が照射され実験後に精管切除(63年-71年、ワシントン大学)▽死の灰の水溶液を102人に投与(61年-63年、シカゴ大学)▽アイダホ州の原子力委員会直轄の原子炉から、故意にヨウ素を7回放出した。
実験はなぜ執ように繰り返されたのか。その源流をたどると広島・長崎への投下につながる原爆製造の「マンハッタン計画」にいきつく。
スミソニアン博物館の科学史学者、グレッグ・ハーケン氏は、核物理学者ジョーゼフ・ハミルトン氏が実験の“先駆者”だったと断言する。ハミルトン氏は、マンハッタン計画関係者の被ばく問題を最初から担当、問題のプルトニウム人体注射の責任者でもあり、研究に没頭する余り自らも被ばくして49歳で死亡した孤独な学者だ。
解禁された政府秘密資料によると、ハミルトン氏は46年11月、「死の灰を煙霧状態にして大都市人口密集地帯に散布した場合の効果は大きく、人々の驚がく、恐怖、不安は容易に想像できる。これに対抗するのは絶望的だ」と、米陸軍に人体実験を要請する秘密報告をしている。49年10月にはユタ州でハミルトン氏を議長に陸軍が散布実験を計6回行った。
ハーケン博士の分析によると、一連の実験には、放射線治療、マンハッタン計画従事者の被ばく対策、そして放射能を将来の戦争に利用しようという3つの目的が最初からあったという。ただ、「3つの目的の境界はいつもあいまいだった。そして、ソ連の原爆開発が意外に早かったことが、軍事目的の要素を急激かつひそかに膨らませた」と、博士は指摘する。
その一例が、61年から72年までシンシナティ大学で行われた被ばく実験だった。対象者は、治療費の払えないがん患者88人。関係資料によると全身もしくは上半身への被ばく実験は、国防総省との契約(65万ドル)で行われ、目的は「核戦争の際の兵士の継戦能力測定」だった。この事件を追い続ける医師のデービッド・イーグルマン氏(41)は叫ぶように語った。
「この実験で20人以上が数か月以内に死んだ。実験? 冷戦? これはホット・ウォー(熱戦)だよ」(ニューヨーク、桝井成夫)(読売新聞 1994/02/03)

暴れる暗部 冷戦下の米人体実験(中)
NY地下鉄で細菌散布 通勤客対象 他都市でも

1966年6月6日、月曜日。朝のラッシュアワーが続くニューヨーク・マンハッタンの地下鉄ホームに、普通の通勤客を装った米陸軍関係者が待機していた。都心の各駅に散っていた男たちは、同一時刻を期して、電車が滑り込んだ線路や地上の通風口に、次々と電球を投げつけた。電球ははじけ、黒い薄煙が上がりすぐに消えた。この薄煙の正体が、炭疽(たんそ)病の病原菌に似た細菌で、男たちの奇妙な行動がその人体散布実験だったことに気づいた乗客は1人もいなかった。
この戦慄(せんりつ)すべき「実験」の存在は、80年の情報公開法により初めて明らかになった。陸軍が68年にまとめた報告書によると、細菌戦時の大都市の弱点を調査するのが目的であり、そのため「地下鉄がもっとも集中、錯綜(さくそう)して交通量が多い」ニューヨーク・マンハッタンが選ばれた。細菌は駅から駅と運ばれ、40分以内に「最大規模」に広がった。5日連続で行われた実験では、100万人以上が細菌を吸い、中心街では1人当たり1分間に100万個もの細菌を吸引したという。
この常軌を逸した都心散布はともかく、細菌実験がより広範囲に行われていた事実は、77年に陸軍が米上院健康・科学研究小委員会へ提出した報告書によって、ある程度知られていた。報告書によると、49年から69年まで、サンフランシスコ、ミネアポリス、セントルイス、アラスカ、ハワイなど239か所で実施されたという。
一連の細菌実験による被害規模は不明だが、サンフランシスコの弁護士、エドワード・ネビン氏(52)が連邦政府を相手どり起こした損害賠償訴訟は、被害の一端を明らかにした。同氏の祖父は50年9月、陸軍がサンフランシスコ湾上の船から1週間にわたり細菌を大量散布した実験の直後に急死した。訴訟は、その責任を問うものだった。
81年3月から始まった口頭弁論でリチャード・ウィート医師は「病院が扱ったこともない細菌感染患者が一時期急激にふえてすぐに消えた。その時期が後になって実験の時期と合致し、細菌も一致した」と指摘した。その患者の1人がネビン氏の祖父で、心臓弁へのバクテリア感染が死因だった。
ウィート医師は「(ネビン氏の祖父の死因との)因果関係が困難だ」と証言したが、判決は実験を「国家安全保障」に照らし国の裁量行為内として因果関係を認めず、連邦最高裁も上訴を却下。ネビン氏の孤独な戦いは敗北に終わった。
レオナード・コール・ルトガー大教授(政治科学)によると、米国の市民を実験台に供する人体実験は、60年代半ばまでは「核物質」と「洗脳」実験が主流だったが、それ以降は遺伝学を駆使する細菌戦争への対応へと、大きく変容したという。実際、86年にレーガン政権は細菌、化学戦争への予算を1億6000万ドル(80年)から10億ドルに引き上げている。
人休実験によって祖父を奪われたネビン氏は、「敗れても、事実を広く知らせたことで、市民の義務を果たせた」と当時の戦いを振り返るが、怒りはいまもいやされることはない。
「自由の国、個人主義を掲げるこの国で、とても信じられない、愚かなことだ。軍部の戦争パラノイアだ」と……。(ニューヨーク、桝井成夫)(読売新聞 1994/02/04)

暴れる暗部 冷戦下の米人体実験(下)
こじ開けた“パンドラの箱” 調査のホコ先「水爆の父」へ?

米エネルギー省のヘーゼル・オリアリー長官(56)が、ニューメキシコ州の地方紙が50年代のプルトニウム人体実験の追跡調査記事を掲載したことを側近から聞かされたのは、昨年11月末のことだった。
すぐに、安全対策担当者による会議が招集された。「皆口々に情報公開が必要なことを力説しました。決断に30秒かかりました。その30秒に、『もしパンドラの箱を開けてしまったら、私は反科学の人間と思われるだろうか』とか『私にできるだろうか』とか様々な考えがよぎりました。しかし私に決断を迫ったのは、エネルギー省を絶対に変革しなければという強い思いでした」(1月25日上院政府問題委員会での長官証言)。
「30秒の決断」を受けた12月7日の記者会見。放射性物質を使った人体実験の調査開始と、冷戦時代にたまった省内資料3200万ページの公開を、突然発表した。情報公開の目的は、失われた国民のエネルギー省への信頼を回復し、核政策を推進するためと説明された。
保守系「安全保障センター」のフランク・ギャフニー所長は、真珠湾攻撃記念日と重なったこの会見について「オリアリーは、米国の安全保障にとって真珠湾以来最悪の攻撃を行った」「大衆の反核感情をあおったことで、軍事、民間の核政策の今後に計り知れない影響が出てくる。大衆は、(核政策では)秘密の政府が動いているように感じるだろう」と評した。
しかし「パンドラの箱」は開けられた。各地の新聞が「200件から260件」(オリアリー長官)に及ぶ様々な人体実験について報道合戦を開始した。一方、同省の部内紙には「オリアリーはエネルギー省をつぶそうとしている」との実名投書が掲載された。
オリアリー長官は南部生まれの黒人女性。フォード政権時代から、長く同省付きの弁護士を務めた。エネルギー省のスタッフのうち、タラ・オトゥール次官補(安全担当)やダン・レイチャー補佐官らは、長年環境団体や議会調査局でエネルギー省批判の法廷闘争を繰り広げてきた経歴を持ち、彼女が長官就任当初から、同省の大改革を目指していたことがうかがわれる。
今、問題は国防総省、中央情報局(CIA)、航空宇宙局(NASA)が行った人体実験にまで広がり、焦点はクリントン政権がエネルギー省をこえて調査の幅をどこまで広げられるかに移っている。
先月半は、オリアリー長官は核開発研究所など核関連施設の集まる米西部を歩いた。その際サンフランシスコで開かれた会合で、「水爆の父」と呼ばれ、冷戦時代の米国の核開発の中心となった核物理学者、エドワード・テラー博士と顔を合わせた。
この席で博士は「核問題は情報を公開するだけでなく、国民に理解させることが重要だ」と発言、さらに会合後に「人体実験問題は極めて誇張されて伝えられている。情報公開は大衆ヒステリーを引き起こすだけだ」と記者団に本音をもらした。
テラー博士は50年代初め、高まるマッカッシー旋風の赤狩りの中で、「マンハッタン計画」で世界初の原爆を製作しながら、その後、核時代に警鐘を鳴らしたオッペンハイマー博士を「水爆開発を邪魔する利敵行為を働いた」と告発し、その後の米国の核開発の主導権を握った。さらにレーガン大統領時代には「スターウォーズ構想」の提唱者として、冷戦時代の米国の反共政策の中心にいた。
人体実験の告発によって開いたパンドラの箱は、冷戦史の問い直しの波となって、ひたひたとテラー博士の足元にも及ぼうとしている。(ワシントン・山口勉)(読売新聞 1994/02/07)

米・プルトニウム人体実験 4歳児にも注入 米政府が情報公開
【ワシントン8日=大塚隆】米政府が原爆を開発するマンハッタン計画の一環として、1945年から47年にかけて18人の患者にプルトニウムの注入の人体実験を行った問題で、エネルギー省は8日までに情報の自由法に基づく情報公開を行った。この間題で同省が情報公開に踏み切ったのは初めて。

プルトニウム人体実験はニューメキシコ州の新聞アルバカーキ・トリビューンが6年がかりで追跡、昨年11月、その事実を暴露し、米国での放射能人体実験報道のさきがけになった。同紙は18人中5人の名前を報じたが、公開情報では個人のプライバシー保護を理由に名前や住所などはすべて伏せられている。
開示された情報によると、患者のうち最年少は4歳10カ月のオーストラリア人男児。骨がん治療のため渡米し、46年4月26日、サンフランシスコのカリフォルニア大病院で何も知らされないまま0.169マイクロキュリーのプルトニウム注入を受けた。男児は帰国後の47年6月1日死亡した。
実験から40年以上たった87年、患者を追跡していた国立アルゴンヌ研究所が男児の家族に手紙を出して、研究者から家族への説明や実験に対する同意の有無などをただしていたことも、今回の開示で分かった。手紙は「戦争直後に起きた出来事が重要です。特別な治療の内容やどんな物質が注入されたかご存じでしょうか。口頭か文書の同意があったのでしょうか」と書かれている。
同省は今年6月、機密とされている大量の文書を公開する予定だが、一足先に公開したのは実験の大部分が報道で明るみに出されたためとみられる。今回は「人体に静脈注射されたプルトニウムの排出と体内分布」など、人体実験をもとにまとめられた機密扱いの科学論文も併せて開示された。(朝日新聞 1994/03/09)

“原爆の父”が人体実験要求 米エネ省研究所がメモを公開
【ワシントン16日=山口勉】米エネルギー省ロスアラモス研究所(ニューメキシコ州)は15日、「原爆の父」と呼ばれる故ロバート・オッペンハイマー博士(1904-67年)が原爆開発の早期から放射性物質による人体実験の必要を示唆していたことを示すメモを公開した。
同省の核開発をめぐる情報公開の一部として、同研究所の資料公開チームのゲイリー・サンドラ博士が発表したもので、44年8月16日付のオッペンハイマー同研究所長がヘンペルマン同研究所医学部長にあて、プルトニウムの動物実験、出来れば人体実験が必要なこと、実験は同研究所以外の場所で行われるべきことがメモに記されている。
その上で、45年3月ヘンペルマン博士が動物実験では必要なデータが得られないことを報告、「シカゴかロチェスター(ニューヨーク州)の病院で1から10マイクロ・グラムのプルトニウムを患者に注入、患者の死後その器官見本をロスアラモスに集めて研究する」計画が立案され、昨年来、問題化している18人の市民にプルトニウムが注入された。(読売新聞 1994/03/17)

放射能 1200人に人体実験 米政府が情報公開
【ワシントン28日=大塚隆】米コロラド州のロッキーフラッツ核兵器工場で1957年と69年の2回、大火災が発生し相当量のプルトニウムが行方不明になったり、米政府が40年代から89年にかけて48件、約1200人を対象に放射能の人体実験を行っていた事実が27日、米エネルギー省の核機密情報公開で明らかになった。
それによると、ロッキーフラッツ工場の火災で、57年には6キロのプルトニウムが行方不明になった。69年には、火災後に回収したとされるプルトニウムが火災前の記録より約100キロ多くなる食い違いが起きた。プルトニウムの一部は環境中に放出、住民が被ばくしたこともあったという。
人体実験のうち、テネシー州バンダービルト大では42年から49年にかけ放射性同位元素の鉄59を健康な妊婦819人に投与、胎児への吸収状態を調べた。追跡した子供634人のうち3人ががんになっていた。(朝日新聞 1994/06/29)

人体実験で“犠牲”の被験者 新たに妊婦ら1200人
【ワシントン27日=山口勉】冷戦時代の米国で核開発とともに進められた放射性物質の人体実験問題で、米エネルギー省は27日、新たに48件、1200人が実験の対象になっていたとの中間調査結果を明らかにした。
これは86年の議会「マーキー報告」の被験者約800人を上回り、この中には妊婦や精神病者も含まれている。
昨年末から同省の情報公開を進めているオリアリー長官が記者会見を開き明らかにしたもので、このうち同省の前身・原子力委員会が行った「サンシャイン計画」ではひん死のがん患者にストロンチウム85が注射され、その死後に遺体の各部分の検査が行われたほか、妊婦、胎児なども実験の対象になった。
長官は「こうした人体実験の多くが本人の同意なしに行われた」とし、人体実験関連資料1万1000ページを公開したことを明らかにした。また同省人体実験問題室のエリン・ワイス室長は「最終的に被験者数は全体で数千人にのぼる」との見通しを明らかにした。同省は今秋までにこの問題で報告書をまとめホワイトハウスに提出、補償問題などが検討される。
また同長官は併せて、過去の核実験回数などについての資料を公開した。これによると、さる68年12月12日に複数の核爆弾を同時爆発させる方法で計95発の爆発を秘密にしてきたことを明らかにした。この結果、米国の核実験総計は1149発となった。
また長官は会見で、さる62年には英国が供給した商業用原子炉から抽出したプルトニウムで核爆弾を製造、爆発実験を成功させていたことも初めて明らかにした。
さらに同省は、オハイオ州ポーツマスとテネシー州オークリッジの核施設でこれまでの推計量の1.5倍の計994トンの濃縮ウランを生産、現在259トンを備蓄していることも公表した。
オリアリー長官は「政府の情報公開義務と国家安全保障の間には巨大な緊張関係がある」と情報公開の難しさを語りながら、今後も公開を続けていく方針を強調した。(読売新聞 1994/06/29)

米のプルトニウム人体実験 遺族、医師らを提訴
【ワシントン1日=共同】米政府が1940年代に実施した放射能人体実験で、プルトニウムを注入された男性(故人)の家族が、説明なしに実験台にされたと、医師や病院を相手取り損害賠償請求訴訟を起こしていたことが1日、明らかになった。
訴訟を起こしたのは、元鉄道会社職員エルマー・アレンさん(91年に80歳で死去)の遺族。テキサス州ダラスの連邦地裁への訴えによると、アレンさんは47年に左ひざのけがで、カリフォルニア大学病院に入院中、マンハッタン計画所属の医師らにプルトニウムを注入された。
3日後にアレンさんは左足を切断され、退院後、実験台にされたと周囲に話したが、だれも信用しなかったという。
訴えは請求額を明示していないが、遺族はエネルギー省に対し、行政手続きによる6700万ドルの賠償を要求している。(朝日新聞 1994/07/02)

父の痛みはヒロシマの痛み プルトニウム人体実験 被害者の娘、語る
「被爆者の方は、私の父の痛みがよくわかると言ってくれた。父のことともにヒロシマのことを訴えていきたい」。第2次大戦直後、米国政府によるプルトニウムの人体注射実験を受けた犠牲者の娘、エルマリン・ウィットフィールドさん(48)は3日、広島市で開かれている原水爆禁止世界大会の国際会議(社会党系の原水禁主催)に出席、前日の被爆者の女性との「生涯忘れられない出会い」を語り、「核物質が根絶されるまで問い続けたい」と述べた。
エルマリンさんの父、エルマーさんは、1940年代の原爆開発計画として、極秘で行われた放射線実験で、原爆の材料であるプルトニウムを注入された19人の1人。左足を傷めて、カリフォルニアの病院に入院中の47年7月、「治療」という名目で注射され、3日後に左足を切断され、調査に出されたという。
エルマリンさんは、2日午後、平和公園で、「ヒロシマを語る会」の語り部、沼田鈴子さん(71)と会い、沼田さんも被爆した左足を切断していることを知った。
「父は少なくとも麻酔をして切断された。でも、彼女は、原爆投下直後の混乱の中で麻酔もされなかったという。それなのに、米国に対する恨みも言わず淡々と話してくれた」。最後は抱き合って泣いてしまった。
国際会議のパネリストの1人で、「広島、長崎への原爆投下には、人体実験の側面もあった」とみる、米国のエネルギー環境研究所所長、アージュン・マキジャニ博士は実験の目的について(1)放射性物質を使った武器の開発(2)核戦争の戦場での兵士たちへの影響調査(3)放射性物質の代謝や人体内での動きの追跡──などと分析。核保有国は政治体制が違っても、核に関しては国民に対し、秘密政策をとる、と指摘した。(朝日新聞 1994/08/04)

ロケット用原子炉暴走実験 放射能、大量に放出 65年に米国
【ワシントン24日=大塚隆】米エネルギー省の前身、原子力委員会が1965年1月、ネバダ州の砂漠にある実験場で原子力ロケットに使う原子炉の暴走実験を行い、ウラン燃料の一部を高温で気化させ、大量の放射性物質を故意に放出させていたことが分かった。下院の反核派エドワード・マーキー議員(民主党)が24日、明らかにした。
実験は当時、米国が開発中だった原子力ロケット用の炉の特性などを調べるために行われた。同議員が入手した資料によると、キウイと呼ばれる実験炉を計画的に暴走させ、3000度以上の高温を発生させた結果、原子炉内に「花火の打ち上げ時のような白熱した火花のシャワー」が出現、ウランとカーバイドなどを混ぜた特製燃料の5-20%が気化し、かなりの放射性物質が環境中に放出された。
原子力ロケットの構造は明らかではないが、原子炉で水素ガスを2000度程度の高温にし、ロケットのノズルから噴射する。この原子炉は通常の運転状態でも一部で燃料溶融が始まることから、原子炉の特性や運転による環境への影響を調べるため、暴走実験を計画したらしい。
放射線量は実験場所から数十キロ離れた実験場の境界でも年間被ばく限度量の約5分の1に当たる0.057ミリグレイに達した。放射性物質を含んだ雲はロサンゼルス市上空にまで到達、航空機の調査では数日間影響が観測されたという。
マーキー議員は「意図的な放射能放出は人体実験だ」とし、24日、エネルギー省のオリアリー長官あて書簡を出して、詳しい調査を求めた。原子力ロケットの開発実験は55年に開始されたが、数回にわたる実験でもロケットから放出される放射能による環境汚染を解決できないため、72年に開発を断念した。
マーキー議員は、空軍や航空宇宙局は研究再開を検討していると指摘、こうした実験を繰り返してはならない、と訴えている。(朝日新聞 1994/08/25)

人体実験 原子力ロケット開発でも 「市民多数が被ばく」
65年の実験、米議員調査
【ワシントン26日=伊熊幹雄】冷戦時代のプルトニウム人体実験が大きな問題になった米国で、原子力ロケット開発の過程でも意図的な環境破壊や人体実験が行われていたことが、26日までにエドワード・マーキー下院議員の調査でわかった。同議員はヘーゼル・オリアリー・エネルギー長官に書簡を送り、「原子力ロケット開発実験も人体実験として調査するよう」求めた。
同議員の調査及び同日までに公開された機密文書によると、問題の原子力ロケット実験は、1965年1月12日にネバダ州ジャッカース平地にある原子力ロケット開発場で行われた。この時の実験は、実際に原子力ロケットを飛ばすのが目的ではなく、エンジンの原子炉を意図的に爆発させて原子炉の反応及び「爆発で生じた放射能の環境への影響」(ロスアラモス研究所の報告文書)を探るのが目的だった。
この爆発は「まれに見る大量の白熱光線」(同)を生じるとともに、大量の放射能をふりまき、死の灰をもたらす雲が300キロ以上離れたカリフォルニア州の太平洋岸、ロサンゼルスやサンディエゴにまで到達した。これらの地域での放射能は、現在の安全基準値を下回ってはいるものの、マーキー議員は「核爆発が意図的なもの」であるうえ「多数の市民が放射能を浴びた」と批判している。
このほかにも60年には、やはり原子力ロケットのエンジンの原子炉爆発現場に、米軍の航空機を飛ばした上、乗組員がどの程度放射能を浴びるかを探る実験も行われた。マーキー議員は「これは人体実験」とし、65年の爆発実験と併せエネルギー省に徹底調査を求めている。
米国の原子力ロケット開発は、60年代以降たびたび実験が行われながら、現在は中断状態だ。今回の機密文書発掘は、「夢のロケット」とされる原子力ロケット開発の暗部を示したもので、今後の開発復活の動きにも影響を与えよう。
米国では、昨年オリアリー・エネルギー長官の就任以来、同長官のイニシアチブで核兵器開発の暗部を暴く作業が始まり、プルトニウム人体実験の事実が発掘される一方で、実態調査する大統領の諮問委員会も発足している。今回の実験を暴いたマーキー議員は、民主党所属で共和党政権時代から核実験の被害問題に取り組んでいた。(読売新聞 1994/08/28)

がん患者に放射線照射実験 40年代から30年間 全米で1000人、軍が資金
【ワシントン14日=大塚隆】米で1940年代半ばから74年にかけて約1000人のがん患者に、放射線の全身照射実験が行われていたことが明らかになった。核戦争での兵士の戦闘能力などを調べる目的もあったと見られている。冷戦時代の秘密人体実験を調べている大統領諮問委員会が14日、明らかにした。
諮問委員会のゲイリー・スターン調査員によると、実験が行われていたのはテキサス、ニューヨーク、カリフォルニアなど全米の10病院。テキサス州ヒューストンの病院では51年から56年にかけて263人のがん患者に放射線の全身照射を行った。当時、開発が計画されていた原子力推進飛行機の放射能が乗員にどう影響するか調べるのが目的だった。
この場合は空軍が資金を提供、放射線照射前と照射後の患者の運動能力などを比較したという。患者に実験の危険が説明されていたかどうかははっきりしない。照射の効果がないと考えられた種類のがん患者も含まれていたという。
国防総省は40年代後半には人体に危険と考えられた全身照射は実施しないことにしていたが、実験はこれに反した可能性が高い。
諮問委員会は放射線医学や医療倫理の専門家で構成され、今春からこの調査を続けている。組織的に行われたのか、照射線量はどのくらいかなどの調査が進められている。
米国では昨年暮れ、プルトニウム注入人体実験が明るみに出たのをきっかけに冷戦時の人体実験の調査が続いている。今回、明るみに出た実験のうち、過去に知られていたのは60年から71年にかけてシンシナティ大で行われた人体実験だけだった。(朝日新聞 1994/11/15)

米プルトニウム実験 末期患者以外も対象
米政府によるプルトニウム人体実験を調査している大統領諮問委員会は18日、実験が余命の短い末期患者だけでなく比較的元気な患者まで対象にしていたことを明らかにした。入手した実験の実施手順を示す資料から分かった。
それによると、11人の実験を担当したロチェスター大では、プルトニウムの体内での吸収や排せつを調べるため、がん患者でも肝臓や腎臓の機能が正常な人や、逆に10-20倍のプルトニウムを注入する必要から、わざわざ末期患者を選んでいた。
一連の実験を明らかにした新聞報道では、患者の3分の1が実験後10年以上、一部は30年以上も生存したことから、委員会は末期患者だけでなく、元気な人も対象にしていたのではないかとみて調査していた。(ワシントン=大塚隆)(朝日新聞 1995/01/30)

米のプルトニウム人体実験 マンハッタン計画だった 米政府が報告書
【ワシントン9日=大塚隆】米エネルギー省の放射能人体実験調査室は9日、米国で1945年-46年、18人に対して実施されたプルトニウム人体実験が、原爆開発のマンハッタン計画の医学部門の研究として周到に実行されていたことを突き止めた、と詳細な報告書で明らかにした。
同省ロスアラモス研究所や、実験に参加したロチェスター大学などで埋もれていた資料を追跡して分かった。実験は同計画医学部門の研究に参加した内科医ルイス・ヘンぺルマン氏と化学者ライト・ランハム氏が計画、ロチェスター大やシカゴ大などの協力を得た。
原爆製造過程で強い毒性のあるプルトニウムを大量に扱うため、労働者の健康への影響を知るのが最大の目的だったようだ。
人体実験をしたのは「体内に入ったプルトニウムが排せつされる早さを知るのが目的」だった。ロチェスター大では11人に注入したが、うち1人は6日後に死亡、解剖で詳しい結果が得られた。
この直後、ランハム氏はメモで「患者が末期段階なら、プルトニウム注入量を増やすよう」に指示、シカゴでの実験は、2人に94.91マイクログラムという多量のプルトニウムが注入され、患者はすぐ死亡している。
しかし、患者のうち4人は20年以上生存、うち3人はアルゴンヌ研究所が追跡調査を実施した。
他の実験も含めた約300ページの調査報告書を公表したエリン・ワイス室長は「4月半ばまでには論文や資料が見られるよう準備を急ぐ」と約束した。(朝日新聞 1995/02/10)

広島「調査」の学者 人体実験にも関与 米ジャーナリスト明かす
【ワシントン17日=氏家弘二】原爆投下直後に広島を訪れて被爆の実態を調べた米国の学者らが米政府のプルトニウム人体実験にもかかわっていたことを、人体実験の報道でピュリツァー賞を昨年受賞したジャーナリストのアイリーン・ウェルサムさん(44)が明らかにした。
ウェルサムさんによると、取材の中で2つの調査にかかわっていたことがわかったのは、物理学者ら3人。原爆投下後間もなく、広島に入り、被爆の影響などについてデータを集めた。その中には、子どもの体への放射線の影響や発病状況の項目もあったという。
日本などに広島・長崎への原爆投下は人体実験だったという意見があることについては、「投下の目的が実験だったといえるデータは持っていないが、投下後に実験と同じように調査したのは事実だ」と話した。(朝日新聞 1995/03/18)

子供の死体で米政府が実験 米TV報道
【ワシントン20日=共同】米ABCテレビは20日、第2次世界大戦後に米政府が実施した放射能の人体実験に、家族に無断で病院などからひそかに運び出された約1500もの子供の死体が利用されたと報じた。
それによると、計約200回の大気圏内核実験が実施された1945年から63年に、核実験で生じる核分裂生成物ストロンチウム90が子供の骨に与える影響を調べるために、全米の病院から病死した子供の死体が運び出された。その数は約1500体に上り、ほとんどは家族の同意を得ていないという。人体実験の方法については報じていない。(朝日新聞 1995/06/21)

米が核の人体実験検討 51年に29項目 ビキニ関係者が文書入手
広島市で28日開幕した世界平和連帯都市市長会議・アジア・太平洋地域会議に出席したマーシャル諸島の関係者が、米国が太平洋で原水爆実験を繰り返していた1951-52年、核戦争の調査には人体実験が不可欠と米国政府内で考え、具体的に実験項目を検討したことを示す資料の存在を明らかにした。「米国公文書館から入手した」といい、最近、相次いで明るみに出ている米国の核人体実験の証拠の1つとしている。
明らかにしたのは、ビキニ・アトール市の代表に随行している米国人法律顧問、ジョナサン・ウェイスガル氏。米軍医療政策委員会が52年、国防省長官にあてたメモは「核及び生物化学戦争の調査は、人体実験なしにはデータを得られない時点まで到達している。委員会は、この種の調査に人体を利用することを満場一致で承認した」と記しているという。
ウェイスガル氏は、その前年に米国防省医療団が、29の放射能実験を提案した文書も入手。生存者体内の放射能汚染、核爆発のせん光の目への影響、核実験人員の体液の放射性同位体の測定などの項目があり、「将来の核兵器テストに、生物学者や医師の参加が必要と考えるべきだ」と結論付けているという。
(毎日新聞 1995/06/29)

 


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