かつらごのにっき帳

見たこと、感じたこと、言いたいことなどを、気の向くままに綴っています。
開始年月日:平成28(2016)年1月17日

ひな人形

2016年02月26日 | ドライブ

昨日、伊賀上野に行ってきた。伊賀上野とは三重県伊賀市の旧上野市を指すらしい。旧上野市の市街地は伊賀市の中心地区となっている。「伊賀上野城」、「伊賀流忍者博物館」、「芭蕉翁記念館」等々の観光スポットには行かずに、伊賀電鉄上野市駅前の一時間無料駐車場に車を停めて、碁盤目状であることから小京都ともいわれている街中を歩いた。

この時季、街中は女子のすこやかな成長を祈る節句の行事である’ひな祭り’気分に包まれていた。観光案内所の一つとなっている旧沖森邸で雛飾りを見せてもらった。壇上の内裏雛の男雛と女雛の配置が、雛飾りによって違っていたことから尋ねてみた。男雛を向かって左側に置くのが「現代式」、右側に置くのが「古式」とのことであった。大正天皇は、即位式では西洋に倣って向かって左側に立たれた。大正以降は、雛飾りもこれに倣って配置しているとのことである。

「古式」と「現代式」                           

  

 

 立春を過ぎて伊賀に回ってくるらしい万歳師(雛)が飾ってあった。伊賀の人たちは彼らを見て春の訪れを感じたらしい。

 「やまざとは まんざい遅し 梅の花」 芭蕉の句が添えられていた。さすがに芭蕉の生誕の地であると感じた。

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ドコモショップ行き

2016年02月22日 | 節約

2年前に買ったXPERIAの月額利用料金の見直し相談に行った。向後はWiーFi のみにすることに決めた。来月より経費削減が可能だ。せっかくのショップ訪問につき、ガラケーからスマホに変えることを相談したが、本体代金も高く、利用料が高額になることから変更しないことに決めた。ガラケーで十分に用が足せる。変える必要性は何らない。

見栄より実利が大事である。ガラケー賛歌派だ。

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瓶割山城跡を探訪

2016年02月18日 | 史跡探訪

今日午前、2月14日のブログ「柴田勝家の武勇伝」の舞台となった瓶割山(長光寺)城跡を訪ねた。城名の由来は、瓶割山(長光寺山とも言われている)にあったことによる。瓶割山の標高:234.4m。

 山頂の整備された「一の郭」跡地

  

その他「二の郭」・「三の郭」・「武者隠し」・「米蔵」・「土橋」・「石垣」・古井戸」等々の場所を示す看板が立てられていたが、看板がなければ単なる山岳の地形くらいにしか思えない。山頂からの眺望は抜群、琵琶湖も見える。

 戦の歴史であった。兵士たちには戦う理由はなかったはず。兵士たちの命をかけた戦いや一般民衆の辛苦を思うと、城跡にたたずみ在りし日の城の面影を思い浮かべ偲ぶことにやるせなさを感じる。

登り口近くの御澤神社に9:00に集合した。本日案内いただくU氏が資料を用意し概要説明をしてくれたが、体調がすぐれない様子につき、現地説明をお断りしお帰りいただいた。現地説明はU氏に代わって探訪メンバーで勉強家のT氏が立派にやってくれた。帰着時間は、予定通り11時30分であった、快晴下、有意義な探訪であった。メンバー相互の信頼関係も深めることができた。

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節分草

2016年02月16日 | 山野草

先日、’ぼたん鍋’をいただいた店の帰り際の玄関先で、女将が「節分草です」と教えてくれた。教えてもらわなければ、気付かずに間違いなく通り過ごしている。節分前後に咲くことから「節分草」と名付けられたのだろう。可憐・清楚・上品、すべて持ち合わせたような小さく純白の一輪の花が、寒さにもめげずに咲いていた。凛々しさすら感じた。よく観察しなかったが、草丈はせいぜい10cmにも満たなかった。低すぎて臭いは嗅いでいない。

 

山野草の一個体だと思う。山野草に対しては、「maniacな世界」「暗い」「高価」「年寄りの趣味」「生育環境の限定性」・「高山性」「勝手に育つ」等々、自分勝手なイメージを持っている。イメージは払拭できないが、一方では、多少の興味もあるが・・・もう少し先かな。

良いものを見せてもらった。ふと思いだした。

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柴田勝家の武勇伝

2016年02月14日 | 史跡探訪

近々に、「瓶割り柴田」を生んだ、その舞台となった瓶割山城跡(長光寺城跡)を、郷土史家のU氏に案内してもらうことになった。

瓶割山城(長光寺城)は、信長が近江国の防護固めのために武将を配備した城の一つである。柴田勝家が任された。

信長への報復を企てる守護大名佐々木六角義賢・義治は、城を取り囲み、水源を断ち、時機を見計らって降伏を促す使者をつかわしたところ、籠城の柴田軍には水は潤沢にある光景を見せつけられた。

水は困窮しており籠城を続けることが困難な状態であったが、使者が来たときは水が潤沢にあるよう装っていた。柴田勝家は最後の瓶を割り、家臣を奮い立たせ、籠城の10倍を超える義賢・義治軍を強襲・勝利した。瓶を割ったのは「背水の陣」である。柴田勝家の武勇伝として語り継がれてきた。義賢・義治軍は、さらに「野洲河原の戦い」で大敗した。

真実は事実でないかも知れない。

元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉義景の征討の戦い(金ヶ崎の戦い)の途上、浅井長政の離反により撤退した。「瓶割り柴田」が生まれたのは、信長が撤退後に近江国の防護を強化したころの出来事である。岐阜に戻った信長は、軍勢を立て直し、8月に浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで破った。

元亀元年(1570年)も、信長が戦さに明け暮れた年であった。石山合戦、長島一向一揆もこの年から始まった。

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