日露戦争後、朝鮮併合、日清戦争と続くわけだが、この辺りから日本の方向性
がおかしくなってくる。西郷が文明の遅れる国には道理をもって文明開化に導け
といったことと、対極の方向にむかっていくことになる。
西洋列強の帝国主義、植民地から富の収奪などは本来的に非難されてしかる
べきことだが、それらを日本が真似てしまってはならないだろう。
むしろ正さなければならない。明治最大の思想家、福沢諭吉の脱亜論を
見ていこう。
福沢諭吉 脱亜論
現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、
ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、
人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、
西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟
を固めるだけで充分である。
この中で、諭吉は西洋文明の本質をついている。科学によって技術が
進歩したに済ぎず、本来的に人間の能力が向上したわけではないと。
よって我々日本人より優れているわけではない。
とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家
の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけで
なく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るため
の必須条件である。
だが、その技術は侮れないものがある。薩英戦争でのアームストロング砲の
ように脅威ではある。近代化は避けて通れるものではない。
避ければ滅びるのみである。
近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防
げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザ
でも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うも
のの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというの
だろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促し
つつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。
近代化は進めていくべきだが、その弊害は取り除かなければならない。
特に精神の荒廃を防ぐようにすべきだろう。近代化は手段であって、
目的ではない。心身ともに健全であって近代化は初めて意味を成すもの
である。
徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、
それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここ
で旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術
を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の
島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせて
はいなかったからである。
明治維新は、幕藩体制が意図した緩やかな近代化に比べて、急速な改革で
ある。明治維新が行われていなければ、少なからず列強に飲み込まれていた
可能性もある。なにより安政の大獄を行った井伊直弼では、日本の独立を
守れたか微妙だろう。
ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義
として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくし
て日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れる
ことを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代
文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。
入欧の意味は、西洋の科学に立脚した近代化を進めるという意味であって、
欧州の仲間にいれてもらうということではない。アジアを飛び越えて、
西洋に政治的に軸を移すということではない。
脱亜は、進歩のスピードが遅れたアジアから脱却して、独自の道を進むという
意味である。
日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を
受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。その
ひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく
漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なって
いるのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔
たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代
文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神
は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば
儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を
軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争
の場面でも悪いのはお前の方だと開き直って恥じることもない。
シナ、朝鮮は日本に比べて民度が明らかに低い。紛れもない事実だろう。
現在でも、靖国や教科書問題では、いちゃもんをつけてくる。
無理が通れば道理が引っ込む。彼らの無茶な要求にはこたえるべきではないし、
毅然とした対応が取れない現在の政治家があまりにも情けなすぎる。
私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。
もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上
からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と
国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザ
のような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって
空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。
現在、シナ、朝鮮が近代化を進めているのは、ようやくその重要性が
理解できたということだろう。生き残るためには近代化が避けて取れるもの
ではないと近現代史で体感できたからなのだろう。
春秋左氏伝の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・
朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故
に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が
独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも
陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国で
あればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が
行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけば
きりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂って
おれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっち
もどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような
見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。
民度が低いシナ、朝鮮と隣国なのは日本にとって不幸ではある。
だがその民度が低すぎる国を放置するのも日本にとってマイナスになる
だろう。現在のように足をひっぱり続けるままになるだろうから。
彼らの民度が低い点についてはむしろ、日本が厳しく批判し是正するように
圧力を掛けたほうがいいだろう。そのほうがアジア全体の利益にも繋がる。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
東アジア共同体の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てる
べきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まな
ければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接して
はならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って
接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持
ちにおいては東アジアの悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)
現在、政府が進めている東アジア共同体は、日本にとって地獄を見るだろう。
シナ、朝鮮は競争相手にはならない。彼らが悪乗りするなら、日本としては、
国交断行も視野にいれなくてはならない。たとえ通商関係が途絶えたから
といって、困るのはむしろ彼らのほうだ。日本は本来的に自給自足でき
国である。近隣との国交維持にはこだわる必要はない。
諭吉は、脱亜論をもって、帝国主義者、侵略を助長したと批判されたが、
脱亜論を読めば分かるとおり、どこにも朝鮮を植民地にしたり、シナを攻めよ
なんてどこにも書いてない。戦後の諭吉を評価した学者の頭がいかれていた
だけである。むしろ諭吉は朝鮮などが、自主独立の路線を歩めるように、
私財を投じて新聞社の創設などに貢献している。
彼らが、自主独立を守るのは日本にとってもプラスだし、むしろ文明開化に
導くのが日本の責務である。彼らを攻め滅ぼしては元も子もない。
その結果、跳ね返って日本が、滅ぶだけである。
諭吉の見識は、明治で一番高かったものでしょう。諭吉にならって、近隣の国と
一定の距離を置きながらも、彼らが文明国になれるように誘導していくのがいい
でしょう。
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