売国反対!攘夷への道

売国政治家、売国企業が跋扈していますが、国を憂い、国を売り渡す馬鹿どもを糾弾し、攘夷を決行する趣旨のブログである。

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西村眞悟逮捕について

2005-11-30 00:37:04 | Weblog
拉致議連幹事長も勤める西村氏が弁護士法違反で逮捕されました。
大方の評価では、脇が甘いなどと評されていますが、時の権力が
政敵を葬ることなどいとも簡単なことである。

日本は、現役の総理大臣であった田中角栄でさえ、検察の手に落ちる
国である。現代のお上であるアメリカににらまれば、政治生命など
即、失うということなんでしょう。

陰謀論というより、あからさまな内政干渉である。
日本の政治は、アメリカが決めるということを名実とも示したことになる。

日本には諜報機関がないので、このようなことを考えることはないが、
おおよその見当では、まずCIAが選挙後に、西村失脚を企画し、それを
政府高官を通じて、日本の捜査当局を動員して逮捕に漕ぎ尽きたという
ことだろう。

田中角栄の場合、それで成功し、日本からの反発もほとんどなかったのだが、
今回は、西村は失脚させるほど悪い政治家ではない。
ただ、反小泉筆頭であった政治家ということである。

これまでは、反小泉を叫んだ政治家、田中真紀子、鈴木宗雄、加藤宏一、辻元清美
などは、スキャンダルなどでことごとくその地位を失墜してきたが、
西村は簡単に消せるほど柔な政治家ではないだろう。
CIAは見通しを完全に誤ったといえる。

西村ほど、国益を代弁してきた政治家は他にいない。拉致被害者救出にいち早く
取り組んできたし、国内の反日政治家を厳しく糾弾してきたし、
シナ、朝鮮に対しても、はっきりと国益を代弁してきた政治家である。
安全保障を最も熟知した政治家といえる。

経済政策でも、高い見識をもっており、減税の必要性を理解していた数少ない
政治家である。

自己を律することに関しても、人一倍厳しく、クルマはポンコツ車を使いつづけ
ているし、家は雨漏りするぐらい傾いている。贅沢な暮らしとは無縁であり、
清貧を実践してきた政治家である。

その政治家をまるで金に汚い政治家のごとく扱うのは、検察が狂ってる証でしょ
う。名義貸しの責任を問われているが、弁護士の名義貸しのどこからどこまでが
法律違反で、適法なのかもともとが曖昧であり、基準が不明朗なもので現役の
国会議員をいきなり起訴しようとするのは暴挙に値する。

はなから、西村を立件するのが主目的で罪状は何でもよかったということでし
ょう。このようなことで政敵を葬るなら、その付けはかならず、政権側にまわって
くることになるだろう。

西村は日本にとっては欠かせない政治家であり、正に国士に値する政治家である。
罪状が晴れ、再び国政の主役に復帰してくることを願うし、われわれも西村が国政
もどってこれるように、協力していく活動をはじめていこうではないか。
正義は必ず勝つものである。
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脱亜へ

2005-11-24 00:50:15 | Weblog

日露戦争後、朝鮮併合、日清戦争と続くわけだが、この辺りから日本の方向性

がおかしくなってくる。西郷が文明の遅れる国には道理をもって文明開化に導け

といったことと、対極の方向にむかっていくことになる。

 

西洋列強の帝国主義、植民地から富の収奪などは本来的に非難されてしかる

べきことだが、それらを日本が真似てしまってはならないだろう。

むしろ正さなければならない。明治最大の思想家、福沢諭吉の脱亜論を

見ていこう。

 

 

福沢諭吉 脱亜論

 

 現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、

ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、

人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、

西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟

を固めるだけで充分である。

 

この中で、諭吉は西洋文明の本質をついている。科学によって技術が

進歩したに済ぎず、本来的に人間の能力が向上したわけではないと。

よって我々日本人より優れているわけではない。

 

とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家

の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけで

なく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るため

の必須条件である。

 

だが、その技術は侮れないものがある。薩英戦争でのアームストロング砲の

ように脅威ではある。近代化は避けて通れるものではない。

避ければ滅びるのみである。

 

近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防

げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザ

でも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うも

のの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというの

だろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促し

つつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。

 

近代化は進めていくべきだが、その弊害は取り除かなければならない。

特に精神の荒廃を防ぐようにすべきだろう。近代化は手段であって、

目的ではない。心身ともに健全であって近代化は初めて意味を成すもの

である。

 

徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、

それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここ

で旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術

を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の

島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせて

はいなかったからである。

 

明治維新は、幕藩体制が意図した緩やかな近代化に比べて、急速な改革で

ある。明治維新が行われていなければ、少なからず列強に飲み込まれていた

可能性もある。なにより安政の大獄を行った井伊直弼では、日本の独立を

守れたか微妙だろう。

 

 ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義

として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくし

て日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れる

ことを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代

文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。

 

入欧の意味は、西洋の科学に立脚した近代化を進めるという意味であって、

欧州の仲間にいれてもらうということではない。アジアを飛び越えて、

西洋に政治的に軸を移すということではない。

脱亜は、進歩のスピードが遅れたアジアから脱却して、独自の道を進むという

意味である。

 

日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を

受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。その

ひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく

漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なって

いるのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔

たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代

文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神

は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば

儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を

軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争

の場面でも悪いのはお前の方だと開き直って恥じることもない。

 

シナ、朝鮮は日本に比べて民度が明らかに低い。紛れもない事実だろう。

現在でも、靖国や教科書問題では、いちゃもんをつけてくる。

無理が通れば道理が引っ込む。彼らの無茶な要求にはこたえるべきではないし、

毅然とした対応が取れない現在の政治家があまりにも情けなすぎる。

 

 

私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。

もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上

からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と

国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザ

のような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって

空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。

 

 現在、シナ、朝鮮が近代化を進めているのは、ようやくその重要性が

理解できたということだろう。生き残るためには近代化が避けて取れるもの

ではないと近現代史で体感できたからなのだろう。

 

春秋左氏伝の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・

朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故

に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が

独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも

陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国で

あればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が

行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけば

きりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂って

おれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっち

もどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような

見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。

 

民度が低いシナ、朝鮮と隣国なのは日本にとって不幸ではある。

だがその民度が低すぎる国を放置するのも日本にとってマイナスになる

だろう。現在のように足をひっぱり続けるままになるだろうから。

彼らの民度が低い点についてはむしろ、日本が厳しく批判し是正するように

圧力を掛けたほうがいいだろう。そのほうがアジア全体の利益にも繋がる。

 

もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。

東アジア共同体の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てる

べきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まな

ければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接して

はならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って

接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持

ちにおいては東アジアの悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)

 


現在、政府が進めている東アジア共同体は、日本にとって地獄を見るだろう。

シナ、朝鮮は競争相手にはならない。彼らが悪乗りするなら、日本としては、

国交断行も視野にいれなくてはならない。たとえ通商関係が途絶えたから

といって、困るのはむしろ彼らのほうだ。日本は本来的に自給自足でき

国である。近隣との国交維持にはこだわる必要はない。

 

諭吉は、脱亜論をもって、帝国主義者、侵略を助長したと批判されたが、

脱亜論を読めば分かるとおり、どこにも朝鮮を植民地にしたり、シナを攻めよ

なんてどこにも書いてない。戦後の諭吉を評価した学者の頭がいかれていた

だけである。むしろ諭吉は朝鮮などが、自主独立の路線を歩めるように、

私財を投じて新聞社の創設などに貢献している。

 

彼らが、自主独立を守るのは日本にとってもプラスだし、むしろ文明開化に

導くのが日本の責務である。彼らを攻め滅ぼしては元も子もない。

その結果、跳ね返って日本が、滅ぶだけである。

諭吉の見識は、明治で一番高かったものでしょう。諭吉にならって、近隣の国と

一定の距離を置きながらも、彼らが文明国になれるように誘導していくのがいい

でしょう。

 

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攘夷戦、勃発!

2005-11-21 19:30:44 | Weblog

 生麦事件

 

薩摩藩で実権を握った島津久光は、幕府に改革を迫るために、兵を率い、

江戸に行き圧力を掛け、一定の成果を挙げました。その帰路である事件

が発生しました。現在の横浜にある生麦村で、イギリス人4人が行列の前

を横切りました。無礼な行為であり、護衛に当たっていた藩士400人によ

って切り捨てられました。イギリス側はこれを問題にし、犯人の差出しと、

賠償金を要求しました。しかし久光は、当然これを拒否し京都に戻っていき

ました。イギリスは報復措置として攻撃の手を薩摩に向けました。

 

これによって薩英戦争が勃発しました。イギリス側の戦力は戦艦7隻、

砲門100門、これに対して薩摩側は、砲台80門で向かいうちました。

イギリス側は、砲門100のうち20門は射程の長いアームストロング砲であり、

薩摩側の射程1kmに対して四倍の射程をもっていました。これによって、

薩摩側の砲台80門は大破し、イギリス側の勝利に終わりました。

 

しかし戦死者でみれば、薩摩側の死者17人に対し、イギリス側は死者60人と

被害はイギリス側も甚大でした。一方的な敗戦ではなく、薩摩の強さも見せつけ

た戦いでした。この後、薩摩は賠償金をイギリス側に払い講和を結びました。

これ以降、薩摩とイギリスは互いに利用しようと協調関係を築いていくことになり

ます。長州と四カ国連合(英、米、仏、蘭)の間で行われた下関戦争では、禁門の

変に破れた直後で力を失っていた長州軍は抵抗できずに完敗し上陸され占領さ

れましたが、敗戦はしていますが薩英戦争では上陸を許さなかった点で、薩摩は

日本の国土を幕末で初めて護ったといえる歴史的快挙をあげたといえるものです。

 

  薩英戦争

 

 この薩英戦争に、参戦していた者の中に若き薩摩藩士、東郷平八郎がいた。

後に、連合艦隊総司令官としてロシア帝国の世界最強といわれたバルチック艦隊

を破った海軍屈指の名将である。東郷は鉄道技師を目指していましたが、西郷に

よって翻意され海軍に入りました。ロシアの南下が始まりロシアと雌雄を決する

ときが迫ってきました。

 

  東郷平八郎

 

日露戦争時の戦力は、日本の戦艦4隻に対し、バルチック艦隊は倍の8隻もの戦艦

を有していた。戦艦の砲の数が勝敗を決するのが常識だった当時の海戦において

東郷はいかなる戦略によって勝利を勝ち得たのだろうか。

 

東郷ターンと呼ばれるT字戦法では、理想的だが、実現不可能という固定観念をうち破

り、砲撃術の錬磨によって精度を上げ、海戦史上初の無線電信である三六式無線電信機

を完成させた。そして従来の2倍の爆発力を持つ下瀬火薬の開発。沿岸の防御をするのが

常識だった水雷艇を高速近距離射法という戦術を編み出して、運用し大きな成果を上げた。

 

これらによって圧倒的な戦力差を覆し、東郷は完勝に導いたのである。

日本海海戦で日本艦隊の戦死者は88人、負傷者は611人だったのに比べて、ロシア側の

戦死者は6000人に達した。まさに東郷さまさまである。

 

戦力差を覆し、列強との攘夷戦に初勝利をあげることができたのも、ひとえに東郷の指導力

の高さゆえのものだろう。

 

アメリカ大統領ルーズベルトはこの海戦に、こういった。

 

「これは世界が目撃した最大の驚嘆事だ。かのトラファルガー沖海戦ですらこれに匹敵

しうるものではない。第一報が届いた時、私自身それを信ずることができなかった。だが

第二報、第三報がいたるに及んで、私はまるで自分が日本人になってしまったかのよう

に興奮を禁じ得なくなり公務につくことが出来なかった。私はその日丸一日を訪問客とと

もに日本海海戦について語り合って過ごしてしまった。というのも私はこの海戦が日本の

命運を決したと確信したからである」

 

世界では驚嘆の目で見られた、辺境の小国が超大国ロシアを破ったのだから。

黄色人種が白人種に始めて勝つことができた歴史的快挙である。東郷はこういった。

勝って兜の緒を締めよ、と。抜かりのない言葉である。東郷の合理的思考をもって、

戦力差を跳ね返したが、その後の日本軍は、大和魂の掛け声のもと精神力で勝てと

いう、合理的思考と対極の道を辿っていくことになる。

 

 

          旗艦三笠                             戦艦富士                 戦艦敷島

 

人間に一番大切なのは真面目ということである。少しばかりの才気など、何の役にも立た

ないものだ。たとえ愚直と誹られても、結局は真面目な者が勝利をおさめるのだ。

 

東郷は、西郷に並ぶ薩摩が生んだ英雄といえるだろう。彼らの主張は、合理的思考と、人類の叡智

が集約されているといえるだろう。東郷は戦争を好んだわけではなかったが、ひとたび戦えば、無双

の強さを発揮できる。結局、己を鍛えぬくことが戦にも勝つことにつながるのだ。

 

指導者が模範を示していた江戸時代は、当時の世界では稀に見る秩序があった。宣教師のフランシ

スコ・ザビエルは、日本人についてこう言った。

 

日本人たちは、キリスト教の諸地方の人々が決して持っていないと思われる特質を持っています。

それは武士たちがいかに貧しくても、そして武士以外の人々がどれほど裕福であっても、大変貧しい

武士は金持ちと同じように尊敬されています。武士以外の人々は武士を大変尊敬し、そして、日本に

来るなら、真の謙遜が必要。

 

江戸時代の人たちは、われわれの手本になれるほど世界一の高い見識をもっており、列強の脅威を実力

で打ち払った。物質のみを追い求める現在は、やがて破綻してしまうでしょう。これからは先人たちの叡智

を取り戻す戦いが今はじまる。

 

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攘夷派の軌跡 薩摩編

2005-11-19 19:23:08 | Weblog

 西郷隆盛

 

長州藩に並ぶ、攘夷派に挙げられるのが薩摩藩士たちである。

西郷隆盛は、士族では下から二番目という低い家の出でありながらも、

第28代藩主、島津斉彬によって見出され、直接教育を受け、藩士としての

識見を備えていくことになる。斉彬は、幕末300諸侯随一の名君として、

英明君主として名の通った藩主である。幼少から洋学、漢学に明るく列強

の動向も把握し、国難が迫っていることをひしひし感じとっていました。

斉彬は、近代化をすすめ、蒸気船の製造、汽車の研究、溶鉱炉、反射炉の設置、

硝子の製造、紡績事業、電信機の設置、農作物の品種改良などを行いました。

列強の脅威に対抗するためには、まず軍事力を充実させることが必要と

考えました。

 

 島津斉彬 阿部正弘

 

そのような国難にあたって、時の将軍は13代将軍徳川家定でした。

家定は、心身ともに虚弱であり言語すらもまともにしゃべれない有様で

あり、とても国難で指導力を発揮できる器ではありませんでした。

そこで親交のあった幕府のナンバー2である老中筆頭で、元福井藩主、

阿部正弘や各雄藩と協力し、英明であるとされた御三卿のひとつ一橋慶喜

を将軍にし国難に対処することを考えました。しかし、対立する徳川慶福派の

巻き返しにより、井伊直弼が大老に就任し、阿部は40才代で急死し、慶福が

14代将軍に就任しました。阿部は慶喜派であり、まだ若かったことを考えると

慶福派によって暗殺されたとみていいでしょう。このあと慶喜派の水戸藩主、

徳川斉昭や、島津斉彬なども急死しているので政敵は刺客によって次々と

抹消されてとみていいでしょう。

 

斉彬は兵を率い、上京し軍事力を背景に幕府に改革を断行させ、体制の

一新を図るよう促すことを目指しました。西郷なども同行する予定でした。

ところが、上京する直前の軍事教練中に発熱を起し、倒れ帰らぬ人となって

しまいました。幕府方が放った刺客によって暗殺されたとみていいでしょう。

西郷の師といえる人物であり、あまりにも日本にとって国損がおおきいものです。

なぜなら近代化の原動力は彼の聡明な見識から始まったものであり、彼が

生きていたならば、もっとよりよく国がまとまり列強にも対抗することができた

はずです。

 

その後、井伊直弼にとっての脅威であった斉彬の死により、安静の大獄が

はじまりました。ここから西郷の苦難の人生が始まります。薩摩が匿っていた

月照という僧を引き渡すよう幕府は要求しましたが、西郷は保護することを主張

しましたが、藩主忠義は認めませんでした。西郷にとっては恩人でもある月照

を引き渡すなどありえず、二人して自害することを決意しました。入水しましたが

西郷のみが一命をとりとめました。自分のみが助かったことに悲嘆しました。

このとき、自分にはまだ天命が残っており、斉彬の遺志を引き継ぐことこそ

自分の使命であることを悟りました。これ以降、天命尽きるまで、西郷は

真の志士として国政建て直しに命をかけて望むことになったのです。

 

その西郷に対しても、幕府から捕縛命令がだされました。その後奄美大島

にのがれることになりました。そして斉彬の弟、久光が実権を握り再び薩摩

に呼び戻されます。久光とは激しい対立を繰り広げながら、幾度も処罰され

ますがそれでもめげず、久光の挙兵に伴い上京していくことになります。

 

 

西郷の思想がいかに優れているかその代表格が敬天愛人という思想である。

 

道というものは、この天地のおのずからなる道理であるから、学問を究める

には敬天(道理をつつしみ守る)愛人(人は皆自分の同胞であり、仁の心を

持って衆を愛する)を目的として、自分の修養には己に克つ(自分の欲望を抑える)

ということを、いつも心がけなければならない。

 

敬天は論語にある言葉だが、そこに愛人の思想を加えた点に西郷の特徴が

ある。道義の道を歩むことこそ最良の道であり、誠実をもってことにあたれば

なんら誤った道にはずれることはないということである。

 

忠孝(国柄・文化元首を敬い、親を大事にする)、仁愛(他人を恵み慈しむ)、

教化(教え導いて善に進ませる)という3つの道徳は、政事の基本である。

そして、未来永遠に、また世界のどこにおいても欠いてはならない大事な

道である。

 

この三つの道徳こそ政治家の使命でもある。これを忘却した政治家がいかに

多いか。

 

政治の根本は、学問を盛んにして教育を興し、軍備を整えて国の自衛を

強化し、農業を奨励して生活を安定させるの三つに尽きる。その他いろいろ

な事柄は、皆この三つのものを助けるための手段である。この三つの中で、

時代の趨勢によってどれを先にするか、後にするか、その順序の違いはある

だろうけれども、この文武農の三つのものを後回しにして他の政策を先にする

ようなことは、決してあってはならない。

 

国政の責務はまず、国の大事である国防力を充実させ、学問を奨励し、

経済を開発し国民生活の安定を図ることである。現在の日本の政府といえば、

国防はアメリカに丸投げし、軽武装で国が守れると勘違いしている馬鹿政治家

が幅を利かせているし、経済は甚だ停滞し、国民生活は荒廃する一方である。

国政の体を成していないほど魑魅魍魎な政治である。

 

税金を少なくして国民生活を豊かにすることこそ、国力を養うことになる。した

がって、国に色々な事柄が多く、財政の不足で苦しむようなことがあっても、

定まった税金の制度を確実に守り、政府が損をしても、民間を苦しめたりし

てはならないのである。

 

財政危機を叫び、政治家、官僚、政府委員、評論家は増税の大合唱である。

税金を払う側ではなく、もらう側にいる連中の思考回路などその程度である。

税金を安くして経済を活性化して、国民生活を豊かにする発想すらない。

その対極の政策ばかりするから、結果国力は目に見えて落ちていく。

歳出削減、つまり公務員は自分の身を削ってでも国民生活を害しない

ことを優先すべきだろう。それもなく初めに増税ありきでは、重税国家に

なるだけである。

 

 

国が外国からはずかしめを受けるようなことがあったならば、たとえ国の命運

を賭けて立ち向かって負けても、正しい道を踏んで道義を尽くすことが政府の

根本的な務めである。戦の一字を恐れ、政府本来の任務を果たすことができ

なかったならばそれはもう商法支配所、即ち商いの元締めというようなもので

あり、一国の政府と言えるものではない。

 

国民が自国で北朝鮮に拉致されるなど、国辱ものである。そのような状況

でありながら、友好を唱え経済制裁すらできないとは何事だろうか。

貿易立国とはなんと惨めなものなのだろうか。戦争も覚悟できない政治家

など国政から消滅さすべきであろう。政府の本分を果たすことを妨害する

政治家は公然の場で糾弾されてしかるべきである。


 

文明というのは道理に叶った事が広く行われることを、称えていう言葉であって、

宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけ

が華やかでうわついていたりする事をいうのでは無い。自分が西洋は野蛮だと

言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。もし西洋が本当に文明

であったら未開の国に対しては、いつくしみ愛する心、を基として懇々と説きさ

とし、もっと文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏し

く道理に暗い国に対するほど、むごく残忍なことをして自分達の利益のみをは

かるのは明らかに野蛮である。

 

アメリカが文明国と思っているのは勘違いも甚だしい。他民族を奴隷として

こき使った国ごときが文明たるを得ない。奴隷から搾取した富で豊かになった

に済ぎない。中国も同じく他民族を迫害しているのだから文明ではなく野蛮である。

彼らの力など一時の蜃気楼に済ぎない。日本が真の文明とはなにか見せる

時が必ず訪れるでしょう。我々が手本を見せていく必要がある。

 

人の志というものは何度も何度もつらいことや苦しみを経て、始めて固く

定まるのである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、

志を曲げて瓦となっていつまでも生き長らえることを恥とするものである。

 

高齢者たちに問いたい。この日本の国難にあたって、十分精神生命を

かけて世の中を立て直すことに努力したことがあるのかと。ただ年金を

もらって年をとることが能なのかと。わたしは、西郷にならって太く短く、

全身全霊をもって国政の建て直しに突き進んでいきたいと考える。

武士は戦地で死ぬことは本望である。生き恥を晒してまでも生きながらえる

気など毛頭ない。天命を全うできればいつ死のうが怖くもなんともない。

西郷のような、近代屈指の真の男になれれば本望である。

 

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攘夷派の軌跡

2005-11-17 18:34:49 | Weblog

  吉田松陰

 

攘夷を目指した志士といえばまず、長州藩士、吉田松陰があげられるだろう。

松下村塾の創始者であり、幕末において思想的に秀でた藩士であった。

彼が、攘夷を目指す決意の背景には、このままでは国が滅びるという

危機感があった。幼少から叔父から受けてきた教育は、スパルタ教育と

もいえる厳しい教育だった。徹底的に己のためではなく、公のために勉学に

励めという心底恐れ入る教育である。神道系の系譜である叔父の教育は、

神武天皇から続く皇室を守り、公の利益に寄与する国家護持を主体とし、

命を懸けてでも国を守れという気合の入ったものである。12歳ですでに藩主

に講義を行うほどの人材に育っていった。

 

  松下村塾

 

ペリーの来航によって、列強の脅威にさらされた幕末にあって、松陰が立ち

上がったのは言うまでもない。アメリカと不平等条約を結んだ幕府に反旗を

翻し、時の実権を掌握していた大老、井伊直弼に天誅を行うために上京した。

だが、その動きは幕府に察知され捕らえられた。そして安政の大獄によって

尊皇攘夷派はことごとく処罰されることになった。松陰は死罪で処刑された。

だが松陰の教え子から再び、尊皇攘夷を実現すべく立ち上がった者たちがいた。

そして倒幕を実現し、やがて列強に戦いを挑むようになる。

 

松陰が語った言葉に次のようなものがある。

 

士たるものの貴ぶところは徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。

学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある

 

学問を身に着けることこそ、攘夷に向けて進む道であり、士たるものは、才能に

溺れず徳目と哲学を確立し、題目を唱えるだけでなく実行に移してこそ意味が

あるということである。自己を完成された人間の域に達せさせることこそ、国家

の独立に寄与することができると。これが日本再生の唯一の道になるであろう。

 

松下村塾で育った塾生からは、高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、山県有朋

井上馨などを輩出した。その誰もが時代を切り開いた志士である。

    

 

松陰の直弟子、高杉晋作が詩った俳句に次のようなものがある。

 

国内は乱れ外敵は来るという、日本の国家存亡のときである。いままさに天下

の形勢を一変させる策を立てるときで、親を捨て子を捨てることがあってもなん

で悲しもうか。

 

 この心意気こそ攘夷を行える、志士が志士たる意思が現れている。現在の

日本の置かれている状況でもある。このような人物を育てたのも松陰の功績

である。

 

国を売り主君をとらえて俗論派は暴虐をきわめている。命を捨てて義をつくす

のはまさにこのときである。文天祥(南宋の忠臣)の高節と鄭成功(清に抗した

明の謀臣)の策略と、2人に学んで1人でなさねばならぬのだ。

 

この決意を我々は深く噛み締めていかなくてはならない。

 

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いざ!攘夷へ

2005-11-16 07:21:10 | Weblog

 

幕末に列強の横暴をよしとせず、外敵に真っ向から挑む者たちがいた。

各藩に属する武士たちである。光圀公が啓いた尊皇派の水戸藩士や、

大藩に相当する薩摩藩、長州藩などである。彼らこそ、後に260年間

に渡る幕藩政治に終止符を打ち、明治維新を行い、列強からの独立を

守った英雄たちである。

 

なぜ彼らが攘夷を行うことができたのかその軌跡を追っていきたい。

それが現在の日本を立て直せる唯一の道になると考えられるからだ。

売国奴が蔓延する日本の再建には思想レベルからの建て直しが必要

不可欠である。武士には武士道があったように我々には、我々なりの

道を指し示していかなければならないと考える。

 

さすれば、必ず列強からの独立、日本が日本たりえる国家としての機軸

を確立することができるだろう。最強たる国家を目指して、いざ進め!

 

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