心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

尾張西部檀信徒協議会護法大会

2019年09月29日 | 日蓮宗

尾張西部日蓮宗寺院の檀信徒で作る檀信徒協議会主催の護法大会が清洲の光遠寺でありました。

清林山光遠寺。江戸時代初め承応元年(1652年)の開山。旧美濃路の街道沿いにあります。

まず、宗祖日蓮大聖人の龍口法難会の法要を営みました。

そのあと、東京都中道寺住職、山形教亨(やまがた きょうこう)上人の高座説教。

蓮の八徳のお話と蓮にまつわる、ある檀信徒の方のご成長のお話。

クリ弁は、小松原の鏡忍寺を建立された日隆上人が、まだ11歳で、日蓮聖人のおそば近くに仕えていらっしゃった頃、日蓮大聖人より、本当の父親について打ち明けられる場面でした。父なし子と思っていた自分が、実は小松原法難で日蓮大聖人をお守りして亡くなった工藤吉隆公の忘れ形見であると知らされます。

現在、日蓮宗専任布教師として東奔西走、大活躍中の山形上人、すばらしいお説教でした。

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春季彼岸法要

2019年03月23日 | 日蓮宗

3月21日 お彼岸の中日、春季彼岸法要を勤めました。

施餓鬼のあと、犬山妙海寺住職、田中恭遠上人に高座説教をしていただきました。

地獄も浄土も違いはなくて、そこに住む人の心が清らかならば浄土になり、濁っていれば地獄になる。

日蓮聖人のお言葉を紹介しながら、私たちは自分の心の鏡を磨くことで幸せになれるというお話しでした。

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犬山の妙海寺で法灯継承式がありました。

2017年05月28日 | 日蓮宗

今日は五月らしいさわやかな快晴でした。

犬山城下町にある妙海寺で法灯継承式がありました。

法灯継承式とは、住職が交代する儀式のことです。晋山式とも言います。

新住職は、犬山の城下町を稚児とともに行列してお寺に入りました。

本堂内は、檀信徒の方々と有縁寺院の僧侶でいっぱいでした。

今日の晋山式では、僧侶だけでなく、檀信徒の方々も積極的にさまざまな役割をこなされ、お寺と檀信徒が実にうまく融和していると感心しました。

先代住職は、檀信徒協力の下、本堂、鬼子母神堂などの再建を成し遂げ、今日の寺門隆盛の礎を築いてこられました。

新住職は、15歳の時、親元を遠く離れ犬山の地に来て先代住職に弟子入りし、身延山高校、立正大学では寮生活を送り、立派な僧侶となるべく修行を重ね、日蓮宗大荒行堂での寒中百ヶ日の荒行や日蓮宗布教院も終え、まじめで意欲にあふれる青年僧の模範的存在となっています。

心證寺にもたびたびお説教やご祈祷、施餓鬼会の役僧などに来ていただいています。

若い僧侶には現代社会を新しい視点で見つめ、社会に必要とされる信仰の姿を追い求めてほしいと思います。

私も負けてはいられません。

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大荒行堂帰山式

2017年02月11日 | 日蓮宗

一宮市木曽川町黒田の法連寺で大荒行堂帰山式がありました。

日蓮宗には、11月1日から2月10日までの寒中百ヶ日、中山法華経寺に籠もり、午前3時から午後11時まで1日7回の水行、あとは読経三昧、書写行、食事は1日2回の水粥のみ、睡眠時間は1日二時間半というたいへん厳しい修行があります。

その大荒行を四度、通算400日の修行を無事終えられた木曽川町法連寺住職宮崎貞悟上人の帰山式が今日行われました。

法連寺は、黒田の妙見様として親しまれ、山内一豊の父と兄の墓所もある古刹です。

檀信徒の方が幟を立てて住職を迎えます。

小雪の降る中、7人の行僧とともに水行が行われ、

その後、本堂で帰山報告式が執り行われました。

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日蓮宗の法要と音楽

2017年02月02日 | 日蓮宗

妙法蓮華経化城諭品第七にこんな話があります。

お釈迦さまは、周りにいる僧たちにお話になった。
「大通智勝如来という仏がまだ菩薩であったころ、本当の悟りに至る寸前、長い長い時間、足を組んで座り瞑想し続けたが、本当の悟りには至らなかった。そのとき、天子たちが天の花を降らせ、よい香りの風を吹かせ、天の鼓を打ち、音楽を奏でた。長い長い時が過ぎて、大通智勝如来はついに本当の悟りを得ることができた。」

今、日蓮宗の法要では、花びらを降らせ(散華(さんげ)といいます)、香を焚き、太鼓を鳴らし、 銅鑼や鐃鈸(にょうはち)というシンバルのような楽器を打ち鳴らします。上の話にあるように、仏さまを供養し、まだ仏になっていないご先祖などの霊魂に供養し、仏さまになっていただくためにそうしているのだろうと思います。

「にょうはち」です。

こんなふうに鳴らします。

回転させながら、こすり合わせて、”しゃら~”、 たたき合わせて、”じゃん!”

散華しているところ。

日蓮宗の法要の動画です。

3分50秒くらいから、にょうはちが鳴らされます。

一度ご覧ください。

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正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め

2017年01月01日 | 日蓮宗

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

けさ、すばらしくきれいな朝焼けでした。あかね色だった雲が黄金に輝きはじめ、みるみるうちに光を増し、朝日が姿を現しました。

今年もよろしく願いしますと祈りながら手を合わせました。

 

「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、徳もまさり人にもあいせられ候なり。」

 

日蓮聖人が信者であった重須殿(おもんすどの)の夫人に宛てたお手紙の一節です。

新年にあたり、夫人から餅や果物が送られてきました。日蓮聖人は丁寧にお礼のお手紙を書かれました。

正月一日を大切にする人は、月が西から東へ空を移りながら満ちていくように、太陽が東から昇り西に向かいながら明るさを増すように、自然とその人の徳もまさり、人からも愛されるようになるのです。こう述べていらっしゃいます。

 

元旦は、身も心も、住まいも庭も、身の回りも清浄にして、私たちを守ってくださっている神仏にごあいさつすることから始まります。

今年一年、どうかいい年でありますように。

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清水の海長寺に行ってきました。

2016年11月20日 | 日蓮宗

静岡市清水区の海長寺に行ってきました。日蓮宗の本山の一つです。

海長寺は、もとは平安時代初期の仁寿2年(852年)に創建された峨岳寺という天台宗のお寺でした。鎌倉時代の文永9年(1272年)に日位上人がこの地を訪れたとき、当時の山主が日蓮聖人の法門に感銘して弟子となり、寺号も海上寺と改めたのだそうです。海長寺となったのは、江戸時代のことです。

海長寺では、徳川の葵の御紋を使うことを許されています。家康が武田家家臣に追われ、海長寺に逃げ込み、椿の茂みに身を隠したそうです。武田の臣が家康を差し出せと強く迫っても当時の住職は屈することなく、おかげで家康はあやうく難を逃れることができたのだそうです。

 

この寺にあるお釈迦様の像は、峨岳寺と称していた頃に海中より出現したものと言われています。お体には今も牡蠣殻が附着しているそうです。貫首の入山式以外には御開帳されることはありませんが、昨年秋、貫主様が交替した折にはご開帳されました。

本堂脇には天満大自在天神のお堂があります。天神様菅原道真公の木像が祀られていますが、これも海中出現と伝えられています。

海中出現とは、思うに、駿河湾に面したこの近辺では、津波の被害が何度もあり、寺院の堂宇ことごとく波にさらわれ、仏像が浜に打ち上げられることが何度もあったのだと想像されます。そのようにして浜に打ち上げられた仏さまを地元の方が拾い上げ、お寺に持ってきて供養しているのではないかと思います。

この海長寺に長男が10月20日から山務員としてお世話になっています。

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苅安賀の蓮照寺で本堂落慶法要がありました。

2016年11月09日 | 日蓮宗

10月30日、苅安賀の蓮照寺で本堂落慶法要がありました。

一宮市の苅安賀には、日蓮宗の寺院が3ヶ寺並んであります。実は、心證寺も明治29年までは、その並びのいちばん西にありました。江戸時代の「尾張名所図会」などには4ヶ寺が並んでいるところが描かれています。心證寺ウエブページ「苅安賀と心證寺」


その苅安賀にある蓮照寺で本堂の落慶法要がありました。

かつての本堂は、宝暦6年(1756年)に建立されたものでした。このあたりの寺院は、明治24年の濃尾大震災でほとんどが倒壊してしまいましたが、蓮照寺の本堂は、倒壊しませんでした。
しかし、老朽化は如何ともしがたく、耐震性の問題もあり、新しく建て直すこととなりました。

木造、寄せ棟屋根を瓦で葺き、かつての本堂の外観を残しています。その上で耐震性やバリアフリー、使い勝手を考慮し、資金の問題もクリアして、今回の落慶法要の運びとなったのです。

本堂前には、真っ白な角塔婆が立てられ、紅白の布が垂れています。この布は、紅白の綱につながり、、紅白の綱はどこにつながっているかというと、

ご本尊日蓮聖人の左手につながっているのです。
角塔婆の紅白の布に触れることによって、日蓮聖人のお手に触れ、ご縁を結ぶことができるのです。
この綱のことを「縁の綱(えんのつな)」と言います。

本堂の建立は、それこそ何百年に一度の大事業です。ご住職を始め、この事業を成功させようとお骨折りくださった方々のご苦労は、たいへんなものだったと思います。住職は、崖から飛び降りるような気持ちだったと振り返っていましたが、私にはとてもまねできないなあと思うと頭が下がります。

蓮照寺のHPにも、落慶法要のようすが何枚もの写真で紹介されています。そちらもご覧ください。

本堂の落慶に合わせて、境内の庭も整備されました。一角に地元の俳人の句碑が建っています。
これについては、また後日。

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尾張西部檀信徒協議会護法大会

2016年09月19日 | 日蓮宗

先日、尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。尾張西部地域の日蓮宗寺院の檀信徒が集まって、それぞれの信仰を再確認しようという集まりです。

会場は、一宮市丹陽町九日市場の妙法寺。

写真右側の石柱には、「関西小松原 御法難霊像奉安地」とあります。

小松原法難の地(現在の千葉県)で刻まれた日蓮聖人の尊像が、長い年月を経て、現在はこのお寺で大切に守られています。

年に一度、小松原法難会(11月11日)の折にご開帳されます。

日蓮聖人の御生涯 日蓮宗ポータルサイト

護法大会が開催された本堂。立ち見の人もあります。

法要の後、香川県妙応寺御山主高岡完匡上人のお説教がありました。

「大曼荼羅ご本尊を渇仰恋慕する」という題でしたが、苦しみと喜び、災いと幸い、善と悪は表裏一体、どちらか一方だけが存在するのではなく、楽があれば苦がある、生があれば死がある、どちらか一方にとらわれず、苦を忌避せず、楽を手放す勇気を持てば、人生は少しずつ違った様相を呈してくるというお話でした。

心がけがいいから楽ばかりを体験するのでもなければ、心がけが悪いから苦ばかりを体験するのでもない。人生は、苦と楽、幸と不幸の両方を体験するようになっているとのことでした。

まさにそうですね。私たち日蓮宗の僧侶は「煩悩即菩提 生死即涅槃」という句をしばしば唱えます。天台大師の摩訶止観に基づく言葉のようですが、私は、「煩悩を滅したり、生死を乗り越えたりしないと悟りの境地には達しない」のではなく、「煩悩と菩提」「生死と涅槃」は常に表裏一体に存在し、「煩悩に悩まされるから、悟りを求めようと努力する、生きる苦しみがあるから、心の安らぎを求めようと精進する」という意味だと解釈しています。

中国の古典「史記」や「漢書」にも「禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえばあざなえる縄の如し」「それ禍と福とは、何ぞあざなえる縄に異ならん」などの言葉があります。東アジアには、人生をこのようにとらえる見方があります。

現代の世界には、一方を絶対的な悪と見なして、その悪を滅しない限り、世界の平和は実現しないと考えて、徹底的に「敵(悪)」を滅ぼそうとしている人たちがあります。

それでは、いつまで経っても世界の平和はおとずれないと思います。

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日蓮宗の宝塔

2016年09月05日 | 日蓮宗

仏教寺院では、世界中のあちらこちらでさまざまな形の仏塔(ストゥーパ)が建立されています。

仏教と塔については、以前、当山のHPに書きました。「仏教と塔」

 

日蓮宗寺院では、南無妙法蓮華経のお題目を刻んだ石塔を宝塔と呼んで、どの寺院にも建立されています。

 

心證寺の宝塔です。

日蓮宗寺院でなく、街道沿いや村落の中に、宝塔が建立されいる場合もあります。

一宮市木曽川町外割田の村の中に建っている宝塔です。地元の篤信家が建てたものでしょうか。

一宮市北方町宝江のかつて渡し場があったところに通じる街道沿いに建っている宝塔です。

安政3年の年号が刻んであります。

一宮市木曽川町黒田の個人のお屋敷脇にある宝塔です。

享保12年の年号があります。

 一宮市両郷町の巡検街道沿いにある宝塔群です。

地名にもなっている曹洞宗の寺院両郷寺に隣接してあります。

日蓮聖人の六百遠忌(1882年)や五百五十遠忌(文政4年)の年号などが彫ってあります。

昔は、日蓮宗の篤い信者がたくさんいらったのだなあと思います。

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良顕寺で住職交代の法要がありました。

2016年03月27日 | 日蓮宗

一宮市の今伊勢町馬寄にある良顕寺という寺院で住職交代の法要がありました。

うちの寺とは、法類といって、師匠筋の寺院を同じくする親類の関係にあたります。

数日前には雨の予報もあったのですが、仏さまのご加護でしょうか、暖かな良い日になりました。

お稚児さんも出て、賑やかな法要になりました。

良顕寺は、戦前に熱心な信者によって布教所として設立され、代々、尼僧さんが宝燈を守ってきたのですが、この度の新住職は、男僧で佐賀県出身のお上人です。

檀信徒の方々とともに、近隣の日蓮宗寺院の僧侶総出で、手づくりの儀式法要を営みました。多くの人の助けがあってこそ、寺院運営は成り立ちます。

私も、何かあった時には、周りの方々から、快く手を差し伸べていいただけるような誠実な生き方をしようと改めて思いました。

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尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。

2015年09月15日 | 日蓮宗

去る9月12日(土)、尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。

会場となった妙泰寺です。

大阪府から村尾泰孝上人をお招きして、「お釈迦さまの言いたかったこと」と題して法話をしていただきました。

この日9月12日は、日蓮聖人が相州龍ノ口(たつのくち・現在の藤沢市片瀬)であやうく斬首されそうになった日で、龍ノ口法難と言います。

『立正安国論』を著し鎌倉幕府を諌めた日蓮聖人を幕府は、幕府や諸宗を批判したとして逮捕、鎌倉市中を引き回したうえ、当時幕府の処刑場であった龍ノ口の土牢に閉じ込めます。十二日の月が沈み、辺りが真っ暗な闇に包まれた9月13日子丑の刻(午前2時頃)、日蓮聖人を土牢から引き出し、斬首しようとします。そのとき、空に光るものが現れて、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ伏し、兵士たちは恐れおののき、刑は執行できなくなりました。幕府は、斬首の代わりとして、生きて帰る者はいないと言われた佐渡流罪に処します。

龍ノ口斬首は、これまでの松葉が谷ご草庵焼き討ちや小松原での襲撃のような暗殺ではなく、幕府が公式に日蓮上人をなきものにしようとして取った処置でした。空に現れた光るものの正体や真偽については、色々な見方があります。しかし、幕府が一旦は斬首を決定し、実行に移したにもかかわらず、土壇場になって命令を撤回したことは歴史的事実のようです。そうなるのには、どんな力が働いたのでしょうか。

諸天善神のご加護により、日蓮上人は天から与えられた使命を果たすため、今しばらくの寿命を賜ったということだと思います。

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如来秘密神通之力

2015年09月13日 | 日蓮宗

当山で使うの朱印の一つです。

なんと書いてあるかというと

「如来秘密神通之力」と書いてあります。

わたしたち(日蓮宗の僧侶)は「にょーらい ひーみつ じんづう しーりき」と読みます。

「仏さまの不思議なお力」という意味です。

「妙法蓮華経如来寿量品第十六」のはじめの方に出てくる言葉です。

「そなたたちに、今から本当のことを伝えようと思うが、理解して信じることができるか?」とお釈迦さまは、まわりの者達にお聞きになります。

弥勒菩薩をはじめとして、まわりの者達は、「お願いします、お話ください」と申し上げます。同じことが三度繰り返されて、「では、しっかり聞きなさい。仏の不思議な力の話を(而告之言 汝等諦聴 如来秘密 神通之力)」と語り、やっとお釈迦さまはお話を始めます。

そこで、お釈迦さまは、私は釈迦族の王子として生まれ、出家して、悟りを開いた一人の人間ではなく、過去から未来にわたってずっとこの世界にいて、常にすべての命あるものたちを見守り、救う永遠の仏であるということを自ら明かされたのです。

仏さまは、いつも私たちのまわりにいて、見守り救ってくださいます。

「仏さまの不思議なお力を信じるか?」この問いに、「はい」と答えることが、仏教という宗教の入り口だと思います。

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七面山に登りました 4

2015年09月06日 | 日蓮宗

一昨日の続きです。

朝、起床時間の4時半になると、太鼓が鳴らされるとともに、寺男のおじさんが布団を上げに来てくれました。

まだ、身支度ができていなかったので、大いに戸惑いました。

 

朝霧が立ち込めて、残念ながらご来光は拝めませんでした。

七面山敬慎院では、現在、内陣格天井の修復をしています。長年の風雪に傷んでいたものを数百年前の造られた当時の状態に戻すのだそうです。

特別に修復中の内陣に入れていただきました。写真の許可も頂いたので、掲載できます。

黒漆、金箔のほか、緑青、群青などの天然の顔料を使って修復作業がなされています。見事な出来栄えでした。

報恩事業の慶賛金を募っていたので、わずかですが協力させていただきました。

落慶は来春だそうです。

朝勤、朝食のあと、敬慎院を後にして、奥の院に向かいました。

ほとんど高低差のない道を10分ほど歩きました。道の両側は樹林に覆われて厳かな雰囲気です。

七面山奥の院。こちらで参籠(宿泊)することもできます。

奥の院参拝の後、下山しました。

 

信仰のために登るお山は日本中にたくさんありますが、その中で七面山は一番神聖で厳かな山だと改めて感じました。

比叡山、立山雄山、戸隠山、羽黒山、月山などにも登ったことがありますが、観光化、俗化している一面もあります。

多くの人が参拝できることは、それはそれで良いことだと思います。

七面山は、自分の足で4時間山登りをしないと辿りつけないこともあって、観光で参籠する人はほどんどなく、俗世間と切り離された感じがします。

この宗教的な厳粛さを多くの人に体験してほしいと思います。

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七面山に登りました 3

2015年09月04日 | 日蓮宗

きのうの続きです。

46丁目の和光門です。この先は、七面山本社の境内地になります。

49丁目随身門です。門前は広場になっていて、展望が開けています。

この日富士山は、残念ながら雲の中でした。

50丁目、敬慎院に到着。5時間ほどかかりました。

 

七面大明神をお祀りした敬慎院の他、七面山を開いた日朗上人を祀るお堂、池大神を祀るお堂など、諸堂が立ち並んでいます。

敬慎院は宿坊になっています。通年で参籠できる宿坊としては日本最高所にあるのではないでしょうか。

標高は2000m近くあって、真冬には零下20度にもなるそうです。

名物になっている大やかんのある囲炉裏の間。

廊下の左右が宿泊室になっています。

食事は、精進で質素。味噌汁が手桶に入ってきます。

明朝起床は4時半。夕勤のあと、9時に床につきました。

続きは、また後日。

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