ベルリン古楽アカデミーの演奏会は三鷹のホールが会場でしたので、
ついでに三鷹駅前のビルに入っている美術ギャラリーを覗いたのでありました。
ちょうど「太宰治資料展Ⅱ」が開催中だったものですから。
ご存知のように太宰は長らく三鷹に住んでいましたから、
市としても資料収集に余念がない様子。遺族から寄託された資料なども含めて、
以前「太宰治資料展」が開催され、今度のは「Ⅱ」ということで。
まあ、太宰治作品はかつてかなり読んで、その独特の文体には
惹かれるのと近付きたくないのと半ばするような複雑な思いを抱いておりますが、
本展の冒頭に「三鷹市が誇る作家・太宰治」とあったのを見て、複雑さはさらに濃厚に。
展示にもあるとおり、太宰作品は世界にも紹介され、今でも書店で全集が手に入るのは
夏目漱石と太宰治だけと言われるくらいの作家ですから、三鷹市が誇っても何ら
差し障りはないのでしょうけれど、今回のような資料展から見えてくるのは
むしろ太宰の「人」としての面だと思うにつけ、う~む…となってしまうわけです。
展示から部分的に引用してみても、
その辺の悩ましさがご理解いただけようかと思うところでして、
例えば、作品を読んで惚れ込んだのでしょう、井伏鱒二には再三手紙を書いて、
しまいには「会ってくれないと自殺してやる」と書き送ったというのですな。
さすがに井伏は万が一を考えて面会してやったそうですが、
1930年、帝大入学時のことであったそうな。いやはや。
後に1948年になって井伏鱒二選集の後記を頼まれた太宰は
「私がほとんど二十五年間かはらずに敬愛しつづけて来た井伏鱒二といふ作家…」
てなことを書いていますので、やはり脅しを掛けてでも面会したいという気持ちが、
若き太宰にあんな手紙を書かせたのでありましょう。
ですが、そのような行いであっても、太宰にあった井伏は長く師弟関係を結び、
結婚の媒酌人やら何やらの世話を引き受けるようになっていくのでして、
ここら辺が太宰の(本人もどこまで意識しているか不明ながら)怖いところでもあろうかと。
次いでは、短編「饗応夫人」のモデルと言われている画家の松井浜江の回想を。
一人で来るという事はなくて、いつも大勢。近くの屋台かどこかで仲間と飲んでから、みんなを引き連れてダダダダッと入ってくる。私、別に「お入りください」なんて言わないのに。
太宰の側からすれば、「お入りください」も要らないくらいに松井のアトリエでは
自由に振舞えたことが「饗応夫人」なんつう話の元になったのでしょう。
上の本展フライヤーを飾っているのは太宰がかのアトリエで手慰みに
筆をふるったものでもあるようですが、画家のアトリエで勝手に絵筆をとり、
かってに絵を書き出すとは常人にできることではありませんですなあ。
で、当のアトリエの主はといえば、こんな感想を漏らすのですね。
普通だったら怒っちゃうようなことだけど、太宰さんの場合は気にならない。ずっと、律儀な人だと思っていた。無頼漢みたいに言う人も多いけど、自分を痛めつけても、人を傷つけるということはない。人を思いやっている感じがする。
先に「怖いな」と思ったのと同様に、この太宰だったら赦せちゃう的なところは
天性のものなのでしょうけれど、何とも言えぬものでありますなあ。
だいたいからして何らか芸術的な才能を発揮する人には、いわゆるフツーの人とは違う面があり、
それだからこそ大成するのやも知れぬと思いますですね。
先に見た新派劇で「国定忠治」の前に置かれた「深川の鈴」という話には
作家志望の若者が登場しますけれど、「命を削って書く」なんつう台詞が出て来ました。
これには太宰の「未帰還の友に」という文章にある一節と符合するようにも思うところで。
僕は自分の悲しみや怒りや恥を、たいてい小説で表現してしまっているので、その上、
訪問客に対してあらたまって言いたいことも無かった。
まあ、このくらいの感じでもないと人に響く作品は生み出せないてなことでもありましょうか。
ですが作品は作品として、作り手の人となりに目を向けるとき、
単純に「誇れる」てなふうには言えないような。
太宰ばかりの話ではありませんが、悩ましいところではないでしょうかね…。