書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

孫尚楊 『基督教与明末儒学』

2014年05月28日 | 東洋史
 「上篇 利瑪竇研究」を参照する。
 マテオリッチは中国社会と科学の独自性を認識しており、彼の儒学評価はイエズス会の西洋中心思想によるそれとは一線を画するものであったと。63頁。

(北京 東方出版社 1994年12月)

正岡子規 『子規全集』 4 「俳論俳話」

2014年05月08日 | 文学
 子規が大学2年生の折に書いた英文の芭蕉・俳句論を発見("Baseo as a Poet"、誰か他者の朱筆入り)。俳句の訳は原語にひきずられてやや妙なことになっているが、本文(朱筆前の原文)は平明である。英語が苦手だったと云われているけれども、辞書を引き引きという感じはしない。英語を英語として書いていると思った。

(講談社 1975年11月)

近藤光男 『清朝考証学の研究』

2014年05月08日 | 東洋史
 碩学の著である。「清朝経学にあって、呉郡恵氏の学は求古の学であったのに対し、載段二王の学は求是の学であった」(「段玉裁の学問」同書354頁)と。あるいは前者は「(修学好古、)実事求是」、後者は「好学深思(、心知其意)」の学であると。
 両者に程度の差はあれ共通する西洋科学(数学・天文学を主とするところの)の素養もしくは業績も考察されているが、それと清朝考証学=清朝経学=漢学との関わりについては、明確な――有機的連関という見地からの、あるいは全体の一部として位置づけようとする――、言及はない。

(研文出版 1987年7月)

曹長青 「肯定新文化運動,否定五四」 から

2014年05月07日 | 抜き書き

  首先我们看性质∶新文化运动是追求个人主义(individualism),要走英美的方向;而五四运动则是清晰的群体主义(collectivism),要走苏俄的方向。

  以学生上街、“火烧赵家楼”拉开序幕的“五四运动”的特征则明显是群体主义。

  原是新文化运动旗帜的《新青年》杂志,在“火烧赵家楼”的五四之后,很快变成鼓吹苏俄革命的喉舌。陈独秀提出五四有三大精神∶爱国救国,直接行动,牺牲精神;并呼喊人民非得“站起来直接解决不可”。这三大精神,都是强调群体主义,更是煽动暴民运动、造反革命。毛泽东当时激动地喊“陈君万岁!”就是从这种群体主义口号中看到了共产革命的机会(五四之后两年共产党诞生)。

  五四运动的这两个口号,后来也完全“变质”。史料记载,陈独秀见了苏俄代表之后,接受了他们对科学、民主的新解释∶科学是指科学社会主义,民主是苏维埃代表大会。而所谓民主集中制,最后就是集权。

  胡适们领导的“新文化运动”与这种“五四”也是截然不同的。胡适从没提出“反帝”口号,反而一直倾心英美价值,去世前的最后一次演讲还在呼吁“西化”。虽然“全盘西化”今天看来并不是妥当的用词和概念,因为西方并非只有一种意识形态。但认真探讨胡适先生本意,可以清楚地看出,他指的西化,就是建立在个人主义之上的文化价值和宪政民主制度,是以“人”为中心的

  新文化运动主要提出反旧礼教,个性解放。但胡适的本意绝非全盘否定传统文化。这里有几点根据∶一是他在美国留学接受了导师杜威的“实验主义”,反对凡事一锅端、大翻盘,不喜欢“翻天覆地”,而是要“大胆假设,小心求证”,点滴实验,“摸著石头过河”。二是他的性格也不是喜欢大杀大砍、激进狂飙式的。三是他对新文化运动的目的早有16个字的清楚阐述∶研究问题,输入学理,整理国故,再造文明。这里的“研究、整理”等,意味著对文化传统的仔细梳理(取其精华,剔除糟粕),而不是“五四”和“文革”式不分青红白的全盘否定。胡适认同(常引用)杜威的名言∶“进步不是全盘的,而是零星的,是由局部来进行的。”


(下線は引用者)

小川環樹 『唐詩概説』

2014年05月02日 | 文学
 小川先生はこの書のなかで、文言文の品詞について述べておられる(「第七章 唐詩の語法」)。そこで提示される「実字・虚字・助字」の三分法を興味深く思った。
 氏は「実字」を名詞、「虚字」を動詞・形容詞に、「助字」はそれらを除いた残りの全て(副詞・接続詞・助動詞・前置詞その他)に当てておられる。通常、「実字」とは名詞・代名詞・形容詞・動詞、「虚字」は前置詞・助動詞・接続詞・感嘆詞・否定詞・副詞・感動詞ほかと(つまり「助字」は「虚字」に含まれる)二分される。小川先生は、「実字」とは形式的には否定詞の「非」を付けられるもの、「虚字」は「不」を付けるものと定義されるのである(173頁)。
 実に興味深い基準である。そういう行き方もありかと。

(岩波書店 2005年9月、もと同社『中国詩人選集 別巻』1958年9月)

『ロマンアルバム アニメージュスペシャル 宮崎駿と庵野秀明』

2014年05月02日 | 芸術
 御両所の対談部分はそれほどの量ではない。面白いが、お二人とも親しいせいか言葉が簡単で、第三者には発言のそれぞれが水面上に浮かんでいる氷のようにも思え、こちらで想像力を働かせて裾を何倍にも拡大しないと本当の意味がわかりにくい感じがある。

(徳間書店 1998年6月)