出版社による紹介。
「ダビデがゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は意味が違うと考えるのは認知言語学者の思考だそうである(野矢氏、46頁)。野矢氏の説かれる認知言語学におけるカテゴリー論がよくわからない。カテゴリーの分け方は人類普遍ではない(すくなくとも私はそう考えている)ことと、氏のおっしゃることとはどう繋がるのか、あるいは繋がらないのか。
また。
主語(主題語)が違う、動詞の態が違う、動作の対象となる語が片方にはあり片方にはない、さらにいえば「が」と「は」と、(格)助詞が異なる、となれば形式が違う、形式が異なるとは発話者の選択が異なったということである、それぞれによって表される意味も異なるからこその異なった選択だ、とは私のような語学屋もしくは翻訳者の発想であるが、普通人、たとえばいまいる世界でいえば史学者には、そんなものはなくて当然ということだろうか。
(中央公論新社 2013年6月)
「ダビデがゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は意味が違うと考えるのは認知言語学者の思考だそうである(野矢氏、46頁)。野矢氏の説かれる認知言語学におけるカテゴリー論がよくわからない。カテゴリーの分け方は人類普遍ではない(すくなくとも私はそう考えている)ことと、氏のおっしゃることとはどう繋がるのか、あるいは繋がらないのか。
また。
主語(主題語)が違う、動詞の態が違う、動作の対象となる語が片方にはあり片方にはない、さらにいえば「が」と「は」と、(格)助詞が異なる、となれば形式が違う、形式が異なるとは発話者の選択が異なったということである、それぞれによって表される意味も異なるからこその異なった選択だ、とは私のような語学屋もしくは翻訳者の発想であるが、普通人、たとえばいまいる世界でいえば史学者には、そんなものはなくて当然ということだろうか。
(中央公論新社 2013年6月)