書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

必要あり、『大宅壮一全集』を繙く

2017年02月12日 | 現代史
 書誌情報、総目次についてはこちら

 1970(昭和45)年、三島由紀夫の割腹3日前に死去した彼の文章がいささかも古びていないこと――それどころか、(私の感覚では)いまこのままでもジャーナリズムで通用するようなモダンですらある――に驚く。
 たとえばである。

 この国における無産階級の利益を守る経済的な労働組合運動、あるいはこれに便乗して、その運動者自体の個人的栄達を計ろうとする運動の指導者には、労働者出身が多い。これに反してプロレタリア階級の政権獲得のための運動、これを通じて人道主義的な自己犠牲の精神を満足させる運動、あるいはこれに便乗して自己の権力欲や名誉心を満足させようとする運津の指導者には、非プロレタリア階級出身が多いということである。 (「共産主義者における人間の研究」昭和25(1950)年6月。『全集』第6巻収録、同書283頁)。

 そうとは言ったものの、書き写してみて、やはり時代色は否めないかと思える。"無産階級”だ。また、以下の"インテリ”や"労働(者)階級”などである。しかし視点と洞察は、いまでも不朽ではないか。

 これらインテリ出身の社会運動かは原則として、名声や権力の誘惑には比較的弱いが、金銭や地位の誘惑には比較的強い。労働階級出身の場合は、原則としてその逆である。インテリの大部分は、その特権を棄権することによってスタートしているのに反し、プロレタリア階級出身者の胸には、特権の夢が匿されていることが多いからである。 (同上、284頁) 

 "インテリ”はあるいはそのままでも行けるとして、"プロレタリア階級出身者”は、こんにちの社会における何か類似の概念・存在で置き換えれば、この洞察は依然として有効であると思うのだが、如何であろう。
『本』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 中島楽章 『徽州商人と明清... | トップ | ジャック・ロッシ著/染谷茂校... »

あわせて読む