書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

清水由里子/新免康/鈴木健太郎 『ムハンマド・エミン・ボグラ著「東トルキスタン史」の研究』

2014年08月13日 | 地域研究
 あらためてきちんと綴るまえに、まず第一番目の感想。
 同『東トルキスタン史』の第3部第2章第5節「東トルキスタンにおける最初の民族覚醒」に、以下のような一文がある。

 公平かつ公正に考えるならば、東トルキスタンのこのような後進性は、ただ単にチーン政府の専制と圧迫の結果であるということは適切ではない。 (「第2章 翻訳・訳注」同書72頁)

 この“公正”とは、原書の「20世紀前半当時のテュルク系言語」(「第1章 『東トルキスタン史』と著者ムハンマド・エミン・ボグラ」 本書28頁)において、如何なる意味を持つ語であったのか。

(NIHUプログラム「イスラーム地域研究」東京大学拠点 2007年3月)

堀池信夫 『中国哲学とヨーロッパの哲学者』 上

2014年08月13日 | 西洋史
 この浩瀚な研究のなか、リッチの『中国キリスト教布教史』がなぜイタリア語で書かれたかについての説明がある。

 『中国キリスト教布教史』はもともとイエズス会への儒教研究報告として書かれたものであった。当時のイエズス会総会長はイタリア人のクラウディオ・アッカヴィーヴァであった。それゆえリッチはこの報告を、アッカヴィーヴァの母国語イタリア語〔原注・リッチの母国語でもある〕で書いたのである。トリゴーによると、リッチはこの報告をまず最初に総会長自身が読み、その承認を受けた後に一般に公開しよう望んでいた〔ママ〕。そのため、他の人物に読まれる可能性の高いラテン語では書かず、まずイタリア語で書いたのだという。 (「第二節 リッチの祖述者――ニコラ・トリゴー」 同書459頁)

 このくだりには根拠となる出典の注が付されている(原注6)。
 さらに、堀池氏は、それに基づく自身の推測として、「そこには、おそらく中国において、土地の環境に配慮しながら、儒教と妥協的に布教を進めるという方法について、一般に公認されうるものか否かの懸念について、打診の意図もあったのであろう」(同上)と続けている。

(明治書院 1996年2月)