ソウルの空の下

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マッコリも選挙運動?

2012-07-28 14:25:13 | インポート

Photo きのうは丑の日で、今日は中伏(チュンボッ-サムゲタンなどを食べて夏バテを乗りきろうとする日)と、暑さを象徴するような日が続いていますが、お元気でしょうか?水分補給には生ビールをゴクリゴクリとやりたいと思う人も多いかと思いますが(私だけかも)、最近韓国のある地方都市で新しいマッコリが売りだされまして、それが大統領選挙と関連していると話題になったとか。写真の広告を見ると、韓服を着た女性がブランコ(クネ)に乗って、左上にはヒョウタンの絵も見えますね。ヒョウタンはピョジュパクまたはパクと言って、これを二つに割りマッコリをすくって飲むときに使います。ブランコは昔、若い女性が運動がてら好んで乗ったものだといわれ、有名な「春香伝」のお話にも出てきますね。ところがこれらを順番に読んでみると、「パク・クネ」となって、与党であるセヌリ党の候補者、パク・クネさんの名前と一致するというのです。絵の女性のヘアスタイルも彼女にそっくりだとも。これを発売した会社が大邱(テグ)という所にあって、この地域は彼女の選挙区でもあることから、事前の選挙運動ではないかと、インターネットなどで大騒ぎになりました。テグ市の選挙管理委員会は、混乱を避けるため、発売元に対して、選挙法違反の疑いがあるとして、関連商標の使用禁止、インターネットの広告削除、商品ポスター配布の禁止などを求める警告を出したそうですが、果たして…。選挙は今年の暮れに行われますが、最近の陽気のようにホットな話題として注目を浴びているようです。


病魔と闘う日々(コン・オクチンさん最終回)

2012-07-19 14:32:36 | インポート

Photo 1970-80年代に観客が腹を抱え、転げるようなユーモアとウィット、身振りで国民的な人気を得ていた「亀背舞」の第一人者であるコン・オクチンさんは、1年半以上も交通事故の後遺症に苦しみながら、全羅南道 霊光のひっそりした田舎の住まいで、一人闘病を続けた。テレビ番組の収録中に倒れて半身が麻痺した状態から、ようやく回復したところだった。さらに通院の途中で買って食べた海産物があたって、胆石手術まで受けるようになって寝こんでしまった。それでも取材に来た記者が、遠路ソウルから来てくれたと、自宅隣にある「伝授館」に案内し、これまでの公演写真や衣装、中国公演の際、記念に授与されたという徽章など、大切な品物をいちいち説明してくれた。大邱で凄惨な地下鉄火災事故があったときは、鎮魂のサルプリ舞を舞ったし、大学生たちと300回を越える公演を共にした縁から、デモをして逮捕された学生の釈放嘆願にも駆けまわって、多くの学生たちを釈放させたなどのエピソードを思い出深く語ったという。彼女の「絶望の淵に追いやられた者だけが表現できる最後の真実の身振りであり、言語である」“ピョンシンチュム”はしかしながら、その、あまりの独創性と即興性ゆえに、必ずしも正統な評価を得られず、踊りのジャンルとして認められて来なかったために、現在後継者とされる人はただ一人しかいない。彼女の逝去とともにその表現してきたものが、忘れ去られてしまってはならないのではないだろうかと、取材にあたった記者は締めくくっていました。これで、ある舞踊家の逝去についての連載を終わらせていただきます。折しも、夏が本格化して熱中症の知らせが伝えられますが、皆さんどうぞお元気で夏を過ごされますよう!


俗世を離れて山寺に入る(コン・オクチンさんその4)

2012-07-16 15:37:21 | インポート

Photo コン・オクチンと南仁樹が二人だけの時間を持てたと喜びに浸ろうとしたとき、だしぬけに警察がやってきた。事件があったのではなかった。かねて父親が決めていた結婚の相手だった。家柄が良く、財産もあって、父親は積極的に進めようとしていたが、彼女の意には染まなかった。しかし血相を変えて駆けつけたその男は「自分の婚約者に何をするつもりだ!」と激怒したために、なす術がなかった。こうして二人は一歩を踏み出す前に、別れるしかなくなってしまった。その後、父の意思に従って警察官と所帯を構えることになったが、彼女が娘を出産したとたん、夫は隣の家に住む、親友であった女性のもとに行ったまま、帰って来なくなってしまった。いつかは戻ってくると信じて辛抱していたが、帰る気配はなかった。父親もこれには愛想が尽きて、娘が何もかも捨てて求礼にある泉穏寺に出家するのを止めることはなかった。3年近く経った。父は娘の才能を惜しんでいた。こうして再び寺から連れ戻すと、すぐに唱劇団の舞台に立たせた。彼女は声の良さももちろんだが、舞の心得があったために、その身のこなしも人々を魅了した。幼くして様々な苦難を乗り越えてきた経験が、心理的表現をいっそう深めたのも、他の演者にはない魅力だったという。ある日、プサンの公演のためになじみの旅館に荷を下ろそうとしたとき、偶然にも同じ宿に来ていた南仁樹と再会を果たした。「舞台で観客の人たちと一つになる時間がある。泣いたり笑ったりもする。でも、舞台から降りると、ふっと虚しさが心の一角を占めていることに気づくことがあるのよ。ある日、プサン公演のために旅館に荷物を持っていったら、あの人がいました…」その日から二人は誰にも知られずに愛をはぐくんでいった。多忙な日々を過ごす二人には頻繁に会うことは許されなかったが、彼女の演技を支える強い絆となった。だが、1962年、南仁樹が持病の結核を悪化させて亡くなると、彼女は再びその愛を胸の深い所に埋めてしまわざるを得なかった…。  次回は「病魔との闘いの日々」です。


生涯の恋人、南仁樹と出会う(コン・オクチンさん その3)

2012-07-14 14:41:01 | インポート

Photo コン・オクチンさんは障害者を「田んぼのツバメ」だという。

「なぜ障害者が田んぼのツバメかというと、ツバメは稲を食べられない。スズメが皆食べてしまうからね」彼女は障害者を他人を決して害することのない人たちを表現する。それなのに社会からあらゆる差別や冷遇を受けていることに対して、それほどに善良な人々をどうして苦しめ続けているのかと、反問しているのだった。「自分が少しも悲しくもないのに、先生がやれというままに表現するパンソリや舞が芸術だなんて言える?とんでもない。芸術は自分の内に涙を呑みこむ恨(ハン)があって、誰かと分かち合いたいと思う孤独がなけりゃね。声が良いからって、芸術になるわけじゃない。習ってできるようになることだけなら、誰だってできるよ」

17歳のとき、群山名唱大会で一位になった。

「その日、群山劇場で公演をした歌手の人たちがいたの。その人たちから打ち上げの席で、今日、群山で少女名唱が誕生したそうだから、一度会ってみたいものだという話が出たらしかった。呼ばれて行って、丁寧にお辞儀をしてから顔を上げると、白い中折れ帽をかぶった紳士が目にとまったんだけど、本当に美男子だった」 当時、[哀愁の小夜曲][山有花]などのヒットで、最高の歌手と呼ばれていた南仁樹(ナム・インス)だった。彼女は一目で心を奪われ、彼もまたコン・オクチンを見染めていて、酒の席が終わってから呼ばれて、二人きりになることができた…。  次回は「俗世を離れて山寺に入る」です。


コン・オクチンさん その2

2012-07-11 09:08:20 | インポート

Photo 女性舞踊家と言えば、美しい衣装に身を包んで、軽やかに舞いあがるような姿を思い浮かべがちだが、孔玉振は違っていた。四肢を震わせる「コプサチュム(亀背舞)」、目の見えない(沈清伝の)父が足を引きずりながら転げまわる舞、男にも到底できないような独特で果敢な身のこなし…。一体どうしてこんな舞踊を生みだすことができたのだろうか。歯の抜けたコプサチュム、背の曲がったコプサチュムなど、このレパートリーだけでも36種類にのぼる。

「父がパンソリの名唱でしたが、徴用で引っ張られたりして。パンソリ一筋で家族を養っていたけれど、あまりに貧しいものだから、私を小間使いとして、よその家に売り飛ばしたのよ。千ウォンのお金をもらってね。それも、よりによって舞踊家のところに。雑巾がけをした後、一人で踊りの真似ごとをしていたら、ある日崔承喜(チェ・スンヒ)さんがやってきて聞くのよ。そんなに踊りをやってみたいかって。うなずいたら、それから踊りの動作を一つ一つ、手を取りながら教えてくれました」

生まれた時から、パンソリだけを聞いて育った少女にとって、崔承喜の舞踊は全く別世界だった。舞踊室の雑巾がけを終えると、一人で崔承喜の舞を真似て踊る仕草をしてみた。やがて少女の舞は、師の体の動きと寸分違わなくなっていった。その才能を評価する人たちの推挙もあって、崔承喜の養女となった彼女は、師と一緒に日本に向かうことになったが、それが人生のつまずきの始まりだった。11歳になった年に、崔承喜は彼女を置いてどこかに去り、一人残された彼女は第二次大戦下の日本で、飢えと彷徨の苦難の果てに、13歳のとき、ようやくにして故国の土を再び踏むことができた。物乞い生活までしながら、奇跡的に父や家族と再会を果たすこともでき、朝鮮唱劇団に入団して舞台に上がるようになると、彼女の人生にも希望の灯りがともったように見えた…。  次回は「生涯の恋人、南仁樹と出会う」です。