貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

アカシバ(赤芝) 4

2017-02-03 21:45:43 | 日記
私が「アカシバ(赤芝)」の「赤」は、酸化した鉄の赤錆色した土地を指して名づけられたに違いないだろうと想像したのは、子供の頃に見た、井戸水を汲み上げる際に、「金気」を取り除くために、手押しポンプの吐き出し口に手拭木綿で拵えた袋をつけるといった対策をしている家の在った記憶が頭を掠めたからであった。

その木綿の袋が、鉄錆で赤茶色に変色している様子を見た憶えを、この「アカシバ」談義にも加わっていた道場の家主である珍竹林さんに話しながら、この家ではどんな様子であったかを確かめてみたところ、「たしかに、子供の頃に飲み水は井戸水を使っていて、祖父にあたる人が保健所で成分分析を頼んでみたところ、飲用に問題は無いが鉄分が多い水だとの指摘を受けたと聞いている」。
「だからだったと思うけど、家の井戸水でお茶をいれるとお茶の色は緑色ではなしに紫がかったラベンダー色に変色してしまったものだった。」とも話してくれた。
さらに、「当時、家に通じるカイドウ脇には粘土層の露出した所があって、これで粘土細工して遊んだ記憶もあるし、そこには赤錆色した箇所もあった」と言いながら、私の意見に賛同してくれたのだった。

こんな談義を取り交わしたのは、もう十年以上も昔のことであるが、この話を聞きながら私の意識の中には、赤土台地のハケの縁、谷地の低湿地の水の中に鉄分が赤錆色して積もっている情景が浮かんでいた。

そして、そこにはこれを採取して赤色顔料にと利用している縄文人の姿が映し出されていた。

私の「アカシバ=赤芝」という地名に寄せた思い入れは、水酸化した錆鉄を土器や木器などへの赤色塗彩のためにと利用したであろう縄文人への憧れから転化したものであったと言って良かった。


道場として借りてる所は、伊奈氏の陣屋(赤山城)の「出丸」と呼ばれる地の対岸にあたる台地の崖下の場所にある。

「出丸」は舌状に伸びた台地の自然地形のままで、その下は三方向に谷地が入り込み、陣屋の外堀のような役目を果たしていたのだろうが、この谷地は「出丸」を取り囲むようなかたちに入り込んでいて、その東側は外環道を、さらに県道・越谷川口線を横切った先まで伸び、安行氷川神社に近い所が谷頭の位置となっていて、この谷頭の東150mの場所には関東地方の縄文後期~晩期にかけての土器型式として知られる「安行式土器」の標識遺跡(タイプサイト)である「猿貝貝塚」がある。

同じ谷地を今度は「出丸」の西側にと入り込んでいる方に目を向けると、こちらの谷頭は赤山陣屋の本丸の西側、二の丸の北側にあたる位置になり、今は竹林になっていて、その直ぐ脇を高速道路・外環道が通り抜けている。
昭和57年、この外環道の建設工事に伴っての発掘調査によって、この谷頭の場所から(川口東インター入り口近くの下になる)縄文晩期のトチの実の灰汁抜きの為の「水晒し場」の遺構が発見された「赤山陣屋遺跡」(地籍は赤芝新田)がある。
(堅果類の水晒し場としては我が国で最初の発見事例に当たるらしいが、木組みされた晒し場の脇にはトチの実の殻が塚になった所が二ヶ所確認されたことから、灰汁抜きのための施設であると判断されたようだ。)


つまり、道場の前に広がる谷のどちらも、谷頭に向かった先には著名な縄文遺跡が在るということになる。

さらに、もう少し範囲を広げてみると、この谷とは直に繋がってはいないが、ここ「赤芝山」の一角から半径1k強の距離には、ほぼ同時期に営まれたと云っても良いであろう、安行の猿貝貝塚・石神の「石神(卜伝)貝塚」。西立野の「宮合(みやあい)貝塚」と云った縄文遺跡が所在している。
(これら三ヶ所の遺跡の縄文人にとって、赤山陣屋遺跡のトチの実の水晒しの為の施設は共有されたのではなかったかという説もあるようだ。)

このように、道場としてお借りしている地域内には縄文遺跡の数多く分布していたことも手伝って、当時に用いられたとされる赤色顔料との絡みから、これを採取することの出来る適地としても「アカシバ」は位置づけられるに違いないといった思いを以って想像を膨らませたのだった。

ただ、この「アカシバ」の地名談義の時に思いついた「アカシバ」の「アカ」は赤錆色した酸化鉄を指し、近くに所在する縄文遺跡からも赤色の顔料が塗彩され出土遺物もある(石神貝塚からは赤色の漆で塗り固められた籃胎漆器が発見されている。)ことから、この赤色顔料の原材料として酸化鉄が採取されていたに違いがないだろうと云う解釈は、私の頭の中で作り出した空想・妄想に過ぎない世界の話であって、何か証拠立てるもの、例えば、赤錆色に染まった場所や、酸化鉄の塊になったような実物などが手元に在った上での話ではなかった。

こんな風に一時は「アカシバ」の、おそらくはその名の起こりに酸化した鉄分の赤錆が深く関わっていただろうと考えながら抱いた興味や関心は、年を経て、私の中からだんだんと薄れて来ていたのだったが、安行氷川神社の近くに在ったという「赤芝山円福寺」の山号が、再び私に忘れかけていた「アカシバ」地名に対する興味を呼び覚ますこととなったのだ。

特に、先にも記したが、「赤山陣屋遺跡」と同じく外環道の建設に伴った昭和56年の発掘調査で、猿貝貝塚とは小さな支谷を挟んだ対岸の南向きの斜面に位置する「猿貝北遺跡」(地籍は安行大元)から平安時代の製鉄炉6基が確認されている事、そしてこのことと直接関連付けられるかどうかは確信は持てないものの、安行氷川神社に「三社様」の一柱として「金山社」が祀りこまれていた事によって、「アカシバ」地名に寄せる興味が俄然と強さを増して来た。


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