貞観法 やわらぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

軍荼利明王のこと その7

2016-11-02 13:56:17 | 軍荼利明王のこと

軍荼利明王像とはクンダリーニと呼ばれる身体内を流れるヨガで云う「プラーナ(気)」を象徴するものであり、この像に纏わりつく「蛇」は気(プラーナ)の動きを示す螺旋(スパイラル)運動を表すとされているが、次に、この気(プラーナ)=蛇によって表現されている螺旋運動の在り方について少し考えてみようかと思う。

ただ、先にも記したように、私自身は身体内を流れるとされる、クンダリーニを体感し獲得するために行われる、ヨガや瞑想といった方法を試みた経験は無いので、こうした分野からこれについて触れてみることは出来ないが、五大・五輪のうちの「風=気」を通して、このクンダラ(クンダリーニ)=螺旋=軍荼利明王について述べることは可能だと思っている。

クンダリーニ・ヨガでは身体内を流れるクンダリーニ(プラーナ=気)は、身体内の七つのチャクラを経て螺旋を描きながら上下降すると説かれているが、このことは一つヒトの身体内だけに限られたことでは無しに、私たちの周りに見られる万象万物すべてに亘り、同じようにして、この気(風でありプラーナでもある)が流れの作用の結果であると見なすことが出来るだろうし、クンダリーニが狭義での身体内を流れる気を指しての語であるのであれば、ここで述べてみようかと考えている気の流れ方については、「クンダリーニ」よりも「クンダラ」の方が相応しい語であると言えるかも知れない。


前記した私見で、虚空蔵菩薩の功徳「一切のものが何の妨げが無く、自由自在に運動し変化し機能することが出来る」の実相は五輪・五大で説かれる「風」に求めることが出来るのではないか。

加えて、その「風(気)」の流れというのは、陽(ひ)と陰(み)のそれぞれの圧力の差異によって引き起こされていると理解できるのではないかと記した。


私は、この流れこそが、軍荼利明王像にまとわり付く「蛇」が表象する「クンダラ」の語が意味する「螺旋」や「渦」を描く運動によって成り立っていると考えてもいる。

また、軍荼利の「クンダ」の語には「水器」といった意味が、「リ」には「瓶」と云う意味もあるそうだから二語を併せると「水瓶」となり、軍荼利明王自体が「水瓶」とも云うことになるかも知れない。

そのことを物語るようにして、軍荼利明王は別名を「甘露軍荼利明王」とも呼ばれていて、「生命を永らえさせ、困難や病気あるいは障害や災いから人々を救う」ことの出来る「甘露」を授ける明王ともされている。

さらにまた、「クンダリ」の語には「火・炎」といった意味もあるのだそうだ。


これら「クンダリ」の語に含意されるという語義を、先に記した私見、「風(気)」の運動は陽(ひ)と陰(み)との間を移動し往来する運動ではなかろうかする考えに照らして見ると、この語そのものの中に、陽(ひ)の「火」と、陰(み)の「水」が既に含まれていることになるということになる。


「甘露」とは、梵語の「アムリタ」の訳であるそうで、もともとは「死なない」と意味の語であり不老不死を得るための飲食物を指すとのだという。

ただ、軍荼利明王に寄せられている信仰のあり方などを見ると、食物も含まれるのかも知れないが、どうも「水」としての性格が際立って強いように私には印象づけられる。

それでは一体どのようなモノを指して「甘露」と呼ぶのであろうか。
普通の「水」と「甘露」との違いは何なのだろうか。?

再三記しているように私にはヨガや瞑想を行うという体験は無いが、クンダリーニヨガでは、この「甘露」について気を巡らしながら瞑想を行っていくと喉元に甘い味覚を感じることがあって、そこのこの名の起こりがあるとの説明もあるが、正直なところ、私自身が考案して来た体操の実践を通して、こうした感覚を持ったことは未だに一度も無い。

想像でしかないが、きっとこれは瞑想の極点に達すると体液の純化・浄化がすすんで、喉元に下りて来る唾液に甘味を感じることがあるということなのではないだろうかと思うのだが・・・。

実体験のない中で記すのもおこがましいとも思えるが、「甘露」とはどんなものであるかとの問いに対しての答えとして、それは「ひ」と「み」とが綯わされ、練られ、、この上なく極限までに精緻に混ぜ合わされた状態になった「水」と理解して良いのではないかと私は考えている。

それは身体内の「水」だけに限られたことでは無しに、広く自然界に於いての「水」のあり方にも通じているのではなかろうか。

「溜まり水は腐るが、流れる水は腐らない。」

「地」あるいは「地中」に在る「水」は「火=陽」によって「空」へと上昇し、再び「地」へと降り注がれ戻って来て、再び地中から湧き出して来るという往復運動の中で、「ひ」と「み」が互いに綯わされ練られ結ばれて浄化され純化されもしている。

「風」は運動する「気」でありヨガで云うところの「プラーナ」であろうとしたが、その内には「水」が含まれていて、こうした運動の繰り返しの果てに、その水が「甘露」となることになっていると見ることが出来るのではなかろうか。

そしてその運動は螺旋運動によって成り立っている。

つまり、軍荼利明王とはその像容は憤怒の姿はしているが、その実体は、蛇の姿に表象されているのは、「気=風=プラーナ」の螺旋運動であり、その螺旋運動は「気」の浄化され純化された「甘露」そのものを表しているのだと解釈できるのではないだろうか。

こんな風な考え合わせをした上で、あらためて軍荼利明王の自性輪身である「宝生如来」の「宝生」という名について、あるいはまた、正法輪身の「虚空蔵菩薩」の三昧耶形である「如意宝珠」の持つ意味について思いをめぐらしてみると、成る程と納得させられるような気がする。

ここで云う「宝生」の宝とは「甘露」の生まれることを指しているのではないか、虚空蔵菩薩の持つ「如意宝珠」はそれを納めるための珠(容器)を指しているのではないのだろうかと私には思えて来るのである。
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