貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

マジナイ(呪い)その12

2017-08-08 01:03:51 | マジナイ(呪い)
先に記した、両儀(二儀)の「天と地」・「陰と陽」・「男(雄)と女(雌)」などと仕分されて、多くの場合には「天・男が陽」で「地・女が陰」と位置づけられるが、異説もあって「天=陰」・「地=陽」ともされているから少々面倒で厄介なのである。

私自身も少年の日に天空に向かって屹立して据えられていた「石棒(金精様)」を初めて目にした時、「天なる父に母なる大地」という云われ方ばかりが頭にあった私には、大地(母=女)の側から天空(父=男)の側に向かって立てられている、この石棒の在り様に受け入れられない思いを抱きながら、これを如何理解したら良いのだろうと大いに迷ったことがあったことを思い出すし、古墳の形態の一つとして知られる「上円下方墳」が「天円地方」と表されるように、天は丸く地は方形であると説く考えに従っていることからし
て、円やかなのは女性であろうし角張っているのは男性を表すものとして見做せば、これに照らしても、天が父(男)で地が母(女)であるとするのには違和感を持たざるを得ないと考えてみたこともあった。

どちらが本当なのだろうかとよくよく考えてみるに、この全く反対な見方は「太陽」の存在の捉え方によっているのではないかと思い至らされる。

「天」を太陽に擬えれば、「陽」が太陽に由来するようにして、そのまま「天=陽」と捉えられる事になろうが、「天」を太陽の存在を除けた「天空」(宇宙空間)として見做すようにしたら、この場合には「天=陰」と云うことになり、それに対比される「地=陽」となるのだろうが、要は、太陽の存在を如何理解するかによって「天地」の「陰陽」が変わってしまうと云うことなのであろう。

加えて、我が国の記紀神話でも「天照皇大神」は「女性」で「太陽」であるとされるから、尚更に訳が解からなくなる気もして来る。

そもそも、両儀として対置されて「天地」・「陰陽」・「男女」など等に分類される二者に、それぞれ共通している概念とは何なのかについて知れれば、この「天地」の陰陽が逆転すると云った事にも理解が出来るのではなかろうか。

中国思想の「陰陽論」では、この両儀と呼ばれるところの二種=陰・陽が、あらゆる事物を形づけるものとして説かれ、どちらか一方のみが存在すると考えられたのでは無く、必ず事物にはこの二つの別種のものがお互いに対立したり制約し合う関係を持ちながら統一され補完されるとされ、併せて、この二つの関係は対立制約し合いながら統一され」補完されると云えども、それは静止した不変で絶対的な状態に置かれているのではなしに、常に律動を持って量的な変化を起こす運動を繰り返し消長しながら平衡を保っているが、新しく事物が生成される時など、時と場合によっては、「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」の言辞が示すように、この二種(別種)が転化することもあるとの解釈がされる。

私は、この二者を「遠心的に放散する力」と「求心的に吸収する力」。「高圧で放射する力」と「低圧で吸入する力」という相対的に対となる語として置き換えられるだろうと思っている。

上記の「陰陽論」との絡みからして、あらゆる現象(万物万象)は、陰陽の反応に因って生成・循環・消滅しているといった捉え方が成されて来たのだろうが、言い方を換えれば、これは「遠心力・高圧力」VS「求心力・低圧力」の内圧力の差異によって引き起こされる高圧側から低圧側に向かっての「放散(出)」する運動、そして、低圧側から見たら高圧側からの「吸収(入)」する運動。さらに反対に、放散された高圧側の圧力を低圧側から補完する運動、乃至は、この高・低圧の立場が反転されて流れを起こす運動などによってもたらされるものだと云うことが出来るのではないかと考える。

それではこの陰(低内圧)・陽(高内圧)とでは、どちらが先行して生成されたものであるかとすれば、先に生まれたものが「陰」であり、後から生み出されたものが「陽」であるとされるから、この考えからすれば「天が陰」で「地が陽」と云うことになりそうである。

ただ、この二者で互いに補完・消長し合う関係であることからしても、どちらか側だけの働きかけだけで成り立っているわけではないから、見方や立場を変えれば、どちらかが完全に陰であるとか陽であるとかも決め付けられないのではないかと思うのだが・・・。

つまるところ、こうした両儀(二元的な別種)の間で起こる「混じ綯い=マジナイ」こそが、あらゆる「現象・事象」が起こされる原理であるといった見方が古い時代から成されて来たのであったのだろうと推測する事が出来るだろう。

「天地」のどちらが陰陽に位置づけられるにしても、この二者の間で行われる「マジナイ=混じ綯い」については、到底人知の及ぶものではないだけに、これを指して神霊の成せる「マジナイ」と云うことが出来はしないかと私は捉えてみた訳だが、だからこそ、この超人的な力を得たいとの欲求をヒトが抱くようになるのも自然な成り行きであろうし、ここに「人によるマジナイ」の生み出された原因があったように考えて良いのではないだろうか。


次に、私自身が子供の頃から出合った、この「マジナイ」に関わりがありそうに感じて来ている事柄について思い出されるままに記して行ってみようと思う。
コメント
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