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秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその2

2017年06月10日 16時43分16秒 | 1937年 南京攻略...

その1に挙げた情報を見てみると秦氏の(1)〜(5)のうち、(1)(2)(5)について、おかしいことに気がつくのではないだろうか。

(1)と(5)は、【便衣兵】であった可能性もあり、またはその疑いが持たれたものへの誤殺によるものかも知れない。【便衣兵】とは、軍服及び腕章等戦闘員であるという表示が成されていない戦闘員のことで【ゲリラ】のことである。当時の国際法や慣例から、極めて悪質な戦争犯罪として、直ぐさま射殺及び処刑の対象である。便衣兵は市街戦などの状況によっては一般市民と即時に判別が出来ないことから誤って一般市民を誤殺してしまう恐れがあり、そして事実として少年兵がいることは子供ですら掃蕩せざるを得ない状況にあると言うことを支那政府と支那軍が作り出したと言うことである。

当時の法的認識はどうであったかというと、『上海戦と国際法』 信夫淳平著 昭和7年(1932年)という書籍があり(国立国会図書館アーカイブでネット閲覧出来る)、第一次上海事変の後に書かれたものの様であるが、当時も支那の便衣隊によってかなりの被害を受けたようすである。その中から便衣隊についてその法的身分と処遇法を引用する。


【第三章 敵の兵種及び兵器】
P.114 7行目 − P.115 後列3行目まで
便衣隊の抗戦法規上の性質 交戦者の三種
抑も便衣隊は、抗戦法規の眼から見ていかなる性質のものであるか。
便衣隊は勿論好戦者たる資格を有するものではない。現抗戦法規の上に於て認めらるゝ抗戦者は、第一に正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団(Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負う者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有し、(三)公然と兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守するという四条件を具備するもの(正規兵もこれ等の条件を具備すべきはもちろんである。)、第三には、未占領地方の人民で敵の接近するに方り右の四条件の下に民兵なり義勇兵団なりを編成するの遑なく、さりとて侵入軍隊に抗敵せずには居られぬから、敢て之を編成するを俟たず、公然兵器を携帯し且戦争の法規慣例を遵守して抗敵行動に出づるという謂ゆる民衆軍即ち Levee en masse (注:Leveeの後ろから二つ目は上に点が着く)で、以上の三者が交戦者としての有資格者となってある。
非戦闘員の語
因みに記す。交戦者の中には非戦闘員即ち non-combatants もある。元来非戦闘員なる語には二様の遣方がある。一は軍人以外の私人で、即ち直接戦闘に與からざる一般の男女老弱である。他の一は、戦線に立つも干戈を手にして敵と戦うに非ざる軍人軍属、即ち軍医官、主計官、法務官、通訳、軍隊付布教師等である。前者は古来今に至るまで世間普通の俗用語であり、且往昔に於ては公用語でもあったが、『陸戦の法規慣例に関する規則』(以略して陸戦法規慣例規則と称する)に於て『交戦当事者の兵力は戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得』(第三条)と規定し、軍医官主計官等を非戦闘員たる交戦者と為すに至った以来、一般私人の意味に於ける非戦闘員のことは非交戦者(non-belligerents)と称するのがヨリ正しき用語法となったものである。私人非戦闘員という俗用としては勿論妨げないが、現行交戦法規の上では両者を殊別して見るのでなければ意義に混雑を生ずる
P.125 2行目 − 後列4行目まで
便衣隊の処分
陸戦法規に於て前に述べた三種に限られる交戦者は、非交戦者の有せざる特権を有する。例えば敵に捕らえられたる場合に於て捕虜としての取扱を受け、戦時重罪犯(War crimes)として処罰せらるるなき特権の如きである。戦時重犯罪とは、敵国の交戦者若しくは非戦闘者に依りて行われ我軍に有害なる結果を与うる所の重罪性の犯行で、例えば交戦者にありては、陸戦法規慣例規則の第二十三条に於て特に禁止してある害敵諸手段、第二十五条の無防守の土地建物に対する砲撃、その他陸海の交戦諸法規の禁ずる諸事項の無視等、要するに戦時法規違反の行為は勿論、或は間諜行為の如き、将た間諜ならざるも変装して我軍の作戦地、占領地、その他戦争関係地帯内に入り我軍に不利の行為に出づるが如きを言い、又非交戦者の行為としては、その資格なきに尚ほ且敵対行為を敢てするが如き、孰れも戦時重犯罪の下に概して死刑、若しくは死刑に近き重刑に処せらるるのが戦時公法の認むる一般慣例である


このように、南京戦より10年前の書籍ではあるが、当時の日本軍の指揮官クラスに於はこの様な認識であったことは確かであろう。尚、10〜12歳の少年兵を使うというのは、当時の国際法違反とはいえない。だたし、少年兵が存在すると言う事で正規戦闘員と民間人が益々希薄になった事が事実で、それが元となり市街部内での掃討戦に於いて誤認され殺害された時由があったとしてもやむを得ないことになる。事実上、少年兵も存在することで掃蕩の対象でもある訳である。
秦氏は略歴を見ると東京大学法学部のご出身である。法的な事については当然知っている筈にもかかわらず本書においては一切言及はしておられない。

(1)については、APのマクダニエル記者の記事では《中国警察の多くは制服を脱ぎ捨て、下着のまま古い平服を捜し回っていた。》とあり、記者同士の情報に矛盾が生じている。(4)(5)についても、法解釈等で解釈の意見が別れるところであるはずである。処刑された支那人兵卒が、国際安全委員会が示した安全区域内に逃走潜入し、そこで安全委員会メンバーの外国人に命乞いをしたとしても、引き渡された兵卒や、安全区域内で発見された兵卒が、陸戦法規慣例規則の第23条からの法的根拠からして【捕虜】となり得るかどうかは戦時公法の一般慣例として疑問である。なお、恐らくではあるが、新聞記者や諸外国人、一般兵卒、一般人が陸戦法規慣例規則を周知していたかどうかは分からない。何らかの形で投降したとしても【捕虜】となりえるかどうか捕らえた側の判断によるからである。
(2)は、将校がいるのであれば国際安全区委員会となのる外国人集団が難民の為にした【徴発】と同じように日本軍もまた【徴発(Take Over)】と捉えるのが正確と云えるはずである。なお、日本軍により【徴発】された物資についての利用法は、『南京市政概況』(南京特務機関発行 昭和17/国立国会図書館デジタル)のP.79 二、事變後(一)自治委員會當時ノ収支概要において、次のような文面がある。引用《自民國廿七年(1938年:当方補)一月一日至仝(同:当方補)年三月末日南京自治委員會当時ニ於イテハ糧食税、屠宰税ノ設定(二月)ヲ為シタルモ徴収額極メテ微小ニシテ、専ラ財源ヲ日本軍官憲方面ヨリノ寄附金及軍押収物資ノ売却代金ニ依存シ、正常ナラザル財政収支ノ狀況ヲ繼続シタ。》という報告がある。日本軍が【徴発】により押収した物資の売却金にて南京自治委員會の行政運営に還元されていたことが判明している。
(2)と(5)の例についても、《建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ》《一軒一軒しらみつぶしの捜索が行われ》という表現が使われているが、当時13日〜15日は、掃討戦の最中であり、《軒並み》《一軒一軒しらみつぶし》の【敗残兵ないしは便衣兵】の捜索が続いていたことをご承知の筈の秦氏はその点について何故か特に感想はないようである。
ダーディンの記事で(1)〜(5)は、ダーディンのその他の記事を含めて読むと場所や時間の不明確さからの矛盾やもあり、史料として疑問の余地がある点を無視し、AP通信などの記事を史料として使用していないなど、またその正確性の担保としたフィッチという人物像からも判るように、当時の支那YMCAという組織が反日・抗日に帯びていた人物が重役にいたという情報の信憑性を左右する可能性のある史料を無視している。
また、ダーティンの1937年12月18日の南京事件の第一報における冒頭文での、日本の虐殺があったとする記事は、本人が現場を見て居らず、外国人が見たと記述している。その目撃情報は、南京大学学長で、国際安全委員会メンバー マイナー・サール・ベイツ博士(キリスト教宣教師)が情報提供者であり、ベイツから渡されたメモの文面から幾らか文章を付けたり削ったりして作成された事は、以下に二つの文章を掲載したので確認すれば、引用部分からも理解出来る。だいたい英文が似通っている。

By F.Tillman Durdin NYT.
ABOARD THE U.S.S. OAHU at Shanghai, Dec. 17 --- Through wholesale atrocities and vandalism at Nanking the Japanese Army has thrown away a rare opportunity to gain the respect and confidence of the Chinese inhabitants and of foreign on opinion there.
The collapse of Chinese authority and the break-up of the Chinese Army left many Chinese in Nanking ready to respond to order and organization, which seemed in prospect with the entry of the Japanese troops. A tremendous sense of relief over the outlook for a cessation of the fearful bombardment and the elimination of the threat of serious disorders by the Chinese troops pervaded the Chinese populace when the Japanese took over control within the walls.
It was felt Japanese rule might be savers, at least until war conditions were over. Two days of Japanese occupation changed the whole outlook. wholesale looting, the violation of women, the murder of civilians, the eviction of Chinese from their homes, mass executions of war prisoners and impressing of able-bodied men turned Nanking into a city of terror.
Many Civilians Slain
The killing of civilians was widespread. Foreigners who traveled widely through the city Wednesday found civilian dead on every street. Some of the victims were aged men, women and children.
Policemen and firemen were speacial objects of attack. Many victims were bayoneted and some of the wounds were barbarously cruel.
Any person who ran because of fear or excitement was likely to be killed on the spot as was any one caught by roving patrols in streats or alleys after dusk. Many slayings were witnessed by foreingers.

当方約文:上海より 12月17日 オアフ砲艦船上より --- 南京での大規模の暴虐と暴力行為で日本軍はそこでの支那住民の信頼と尊敬と外国人の評価を得る滅多にない機会を投げ捨てた。
南京で支那政府の崩壊と支那軍の瓦解が多くの支那人に秩序と政府の対応する用意をまかされた、それは日本軍の侵入という見込みがあると思われているからだ。
日本軍が壁の中で統制をしてくれる場合、恐怖の砲弾攻撃の中止の展望による大きな安心の気持ちと支那軍による重大なの混乱の恐れの排除が支那民衆に広がった。それは日本軍の規則が保護してくれるかも知れないからだ。少なくとも戦争状態が終わるまでは。日本軍の占領の2日間で全体的な展望が変わった。大規模な略奪、女性への暴行、民間人の殺害、家から支那人を追い出し、捕虜や壮健な男性の大量の処刑が南京を恐怖の街に戻った。
[多くの民間人が殺される]
その民間人の殺害は広範囲に及んだ。水曜日(15日:当方補)に街を広く見回った外国人は、どの道でも民間人が死んでいるのを見つけた。犠牲者の何人かは老人や女性、そして子供であった。
警察官や消防隊員が特に攻撃の対象となった。多くの犠牲者は銃剣でいくつかの傷は野蛮で惨たらしいものであった。
恐怖と興奮で走ったりしたどんな人間でも対象され、同様に暗くなった道や小径でうろつく巡回兵に捕まった人間は誰でもその場で殺される恐れがあった。多くの殺害は外国人たちによって目撃されていた。

『Eyewitnesses to Massacre』M.E. Sharpe社
The Chapter of Miner Searle Bates
At Naking the Japanese Army has lost much of its reputaiton, and has thrown away a remarkable opportunity to gain the respect of the Chinese inhabitanats and foreign opinion. The disgraceful collapse of Chinese authority and the break-up of the Chinese armies in this region left vast nmbers of persons ready to respond to the order and organization of which Japan boasts. Many local people freely expressed their relief when the entry of Japanese troops apparently brought an end to the strains of war conditions and the immediate perils of bombardment. At least they were rid of their fears of disorderly Chinese troops, who indeed passed out without doing severe damage to most parts of the city. But in two days the whole outlook has been ruined by frequment murder, wholesale and semi-regular looting and uncontrolled disturbance of private homes including offenses against the security of women.
Foreigner who have traveled over the city report many civilians' bodies lying in the streets. In the central portion of Nanking they were counted yesterday as about one to the city block. A considerable percentage of the dead civilians were the victims of shooting or bayoneting in the afternoon and evening of the 13th, which was the time of Japanese entry into the city. Any person who ran in fear or excitement, and any one who was caught in streets or alleys after dusk by roving partrols was likely to be killed on the spot. Most of this severity was beyond even theoretical excuse. It proceeded in the Saftey Zone as well as elsewhere, and many cases are plainly witnessed by foreigners and by reputable Chinese.

当方約文:マイナー・サール・ベイツ博士 アメリカ 南京大教授のメモ
南京で日本軍はその評判の多くを落とし、そして中国人住民の尊敬と外国人の注目されるようなせっかくの機会までも投げ捨てた。この市内一帯での中国当局の不名誉な崩壊と中国軍の解体で、膨大な数の人々が、日本が誇りとする秩序と体制に応じる状況に置かれた。日本軍の入城と共に戦争状態による緊張感と砲撃の直撃による危険の終わりを意味していたので、多くの地域住民はホットして安堵の表情を浮かべた。少なくとも、乱暴な中国軍への恐怖はなくなった。大部分の市街に苛烈なダメージを与えることが無なかったのは確かである。しかし、2日間(13,14日)に於いてその全体的予想は、度重なる殺人、大規模な半恒常的な略奪や無秩序な騒乱、民家での女性への犯罪を含め、台無しになってしまった。街を行く外国人は道路に横たわっている多くの民間人の死体を報告している。南京の中央部では、昨日数えられた遺体は街の区画に約1体づつあった。
13日の午後と晩の民間人の死者の割合の相当数は銃撃と銃剣による刺殺であったが、そのどれもが日本人が市内に入ってから行われたものであった。
恐れと動揺から走り出したもの皆、そして暗くなった道路や路地で見つかった物は誰もが、歩き回る警らにその場で殺される恐れがあった。
このひどさと言ったら弁解の余地はない。
それは他の場所で更に進むにつれて安全地帯でも行われた、多くのケースに於いて外国人と世間に信用のある中国人によってまざまざと目撃された。


これを読んで頂ければ、ダーディン氏の記事の出所が、ベイツ博士の記事とお判りかと思うが、記事中の日本の虐殺行為を目的していた外国人はベイツの書いている外国人と同じであるはずである。では、一体誰が、日本軍城内占拠13日の後の14日、15日に虐殺を見ていたのか。これについては、松村俊夫氏の論文『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』(日本語版 hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf、英語版 http://www.sdh-fact.com/CL02_1/85_S4.pdf)に詳述されているが、中でも、南京攻略戦後に事後の被害状況の統計調査を行った南京大学の社会学の教授であるスマイス博士(国際安全委員会のメンバーの一人)の手紙やその他外国人など手紙などが収録された『Eyewitness to massacare』(M.E. Sharpe社)を分析する事により、ダーディン記事中にあるような日本兵卒の虐殺行動を目撃した外国人は誰もいなかった事を論じておられる。その核心となる部分を抜粋すると

Sure enough we found a detachment of about 100 men sitting on the south side of the road, and a large group of Chinese civilians on the opposite side looking at them. We tried to explain to the officer the Zone and drew it on his map of Nanking, note it was not on his map. He said the Hospital would be all right if there was no one in there that shot at the Japanese. About the disarmed soldiers he could not say. (EM 256)

(12月13日、月曜朝)確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山の支那人の群集が彼等を眺めていた。私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた(彼の地図には安全区は示されていなかった)。彼は日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。武装解除された兵については、彼は何も言うことが出来なかった。(256頁)

Tuesday morning, the 14th : We all got up and felt the fighting was over.(EM257)

14日火曜日の朝、我々は目覚めて戦いは終わったと感じていた。(257頁)

Now the Japanese were here; would set up an orderly regime and things would be rosy.(EM 257)

今は日本軍がいる。秩序ある体制と順調な事態が作られて、状況はバラ色になるだろう。(257頁)

 


という、スマイス博士の家族への手紙の内容となる。では、その他の報告はなかったのかというと冨澤繁信氏の『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』展転社刊 1941年(昭和16年)に次のセクションのティンパーリーの書籍『戦争とは何か』と重複している「南京安全區档檔案(DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETY ZONE)」ケーリィアンドウォルシュ社刊 1938年に「第八号 安全地帯における日本兵の不法行為の事例」の第一件 12月15日に、安全区内の鼓楼の家屋で道路清掃員6名が殺され、一名は銃剣で重傷を負った。彼らは私どもの従業員であって、殺傷の理由は一切不明。兵士たちはその家屋に侵入したのです。」とある。確かに犯行日時は15日であるが、提出の日付が1937年12月16日であり、ベイツ曰くの《動く者全てや暗がりの道や小径で殺されたおそれがあった》という事態から比べると、何故この第八号第一件が虐殺行為の代表事例であったのかおかしな話である。本来13日、14日、15日の占領当初の3日間で、有り余るほどの日本兵卒の暴行が目撃されて記憶と記録がなされていたはずである。何故ならダーディンやベイツは外国人たち《many cases are plainly witnessed by foreigners and by reputable Chinese.》に目撃されていたと言っているからである。しかしながら事実上、ほとんど日本兵が行った事例を存在がなく、そして目撃した例も見当たらず、むりやり犯人が不明瞭なこの事案を持ち出してきたというのが事実ではないかと考えられる。


 



まとめ

この様に、冒頭のセクションの外国人記者は実際に南京攻略戦中戦後の南京市街の様子を日本兵卒と南京に居た支那人以外に見た可能性のある人間であり、その記事は最も重要な当時を示す一次史料であり、記事全体における慎重な引用と分析が重要である筈ある。しかし記事内容の取捨・選択はそもそも史料を広範囲に集めた上で多角的に分析しとは全く言い難く、ダーディンの記事中の日本側の暴行面を抜き書きしただけで、史料批判の【検証の基準】には【虐殺有り】基準にテキストを【無批判・無検証】に引用して、【正確】な【事実】であるような印象を読者に与えようとしている感がある。

【ダーディン記者の第一報】セクションにおける秦郁彦氏の【史料の取捨・選択】の基準とは、【虐殺や不法・不当行為有き前提】が記述されたものだけであり、秦氏の姿勢における《筆者としては先入観や政治的配慮を排し、そのとき南京で何が起きたのかという観点から、事実関係を洗い直し復元することをめざし》とは明らかに異なっている。今回は【政治的配慮】は垣間見えないが、【南京で非道な虐殺や野蛮行為が有った】という【先入観】で情報を選択し、それ以外の情報は検討もせずに捨て去り【事実関係を洗い直す】という作業は、全く試みられてない事が判る

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