john note〜魂の日記(再)

聖テレーズが大好きなカトリック者です。嫌いな方はそおっとスルーしてくださいませ。
足跡日記から魂の日記に変えました。

神様を愛することと使徒聖ヨハネについて

2017-08-10 22:48:55 | カトリックのひとりごと
最近、つくづく思う。
自分のブログは特殊だと。
本音で書き、飾り気のない、真実のブログなんだと。
あなたのカトリックはカトリックではない、と書かれたがそのカトリックの人は、カトリック者しか天国に入れないという。
そんな、バカな話があるか!と。

カトリックになって、真の信仰とは、が20年以上たってわかる時期になった。今までの信仰はただの信仰だった。
カトリックのブログのなかにもただの語りが多いし、コピペもある。
その中にも多くの病を抱えながら、生きている事をブログにしたものもある。
実際、カトリック教会の信者の中には何の悩みもなく、教会に来て、ただうわべだけの聖体拝領をしている信者もいる。
聖堂の外に出た途端、騒がしくなるのは日常茶飯事だ。
次のミサが後、30分で始まるというのにこのざまだ。
自分も今まで信仰を生きてきたが、それは本当の信仰じゃなかった。
神様を愛することは、苦しみを伴う。
この事を理解するにはほど遠かったと反省している。
神様を愛しています。ミサにも行っています。聖体拝領もしています。告白もしています。ミサ献金もしています。祈っています。
これだけじゃダメなんだと。
普通の信者の場合、自分に苦しみや苦難が押し寄せて来た場合、これだけの信心業をやっていたとしても、一瞬にして神様から離れてしまう。
これじゃだめなんだ。
これは、信心ではなく信心業だから。
私の場合、病気が信心業ではなく本当の意味での信心、信仰に導いてくれている。
多くの聖人たちは、苦しみを愛した。
そして、苦しみを愛するばかりでなく、苦しみを求めさえした。
聖テレーズもコンソラータも聖ファウスチナも、多くの聖人は苦しむ事を恐れなかった。
本当の意味で神を、イエズス様を愛するとはそういうことなのだと感じた。
私は、本当の意味での信心に足を踏み入れたばかり。
神様が私に忍耐の徳を授けてくれるように祈りたい。
挫折しそうになった時はマリア様により頼もう。


わが霊名、わが守護聖人の使徒聖ヨハネについて考えてみた。
聖ヨハネは実はすごく可哀想な聖人であると感じた。
聖ヨハネは、イエズス様の愛弟子、イエズス様が一番可愛がった弟子、いろいろな恵みを多くもらった弟子として知られている。
でも、実際は違うことに気がついた。
イエズス様と実際に一緒に過ごしたのは、4年弱たらず。

伝道に伴う迫害や、自分の仲間から裏切り者が出たこと、
師であるイエズス様の十字架の死、自分以外の使徒たちは全員殉教してしまったこと、数多くの仲間の死、聖母も死んでしまった事による孤独感は何十年続いたことであろうか。
死も辛いことてはあるが、友の死を何十人と見送った使徒聖ヨハネも辛かっただろうと感じた。
使徒聖ヨハネは、イエズス様死後、その福音を伝えるべき使命において福音記者聖ヨハネになった。使徒聖ヨハネと福音記者聖ヨハネは同一人物だと考えています。
使徒聖ヨハネの象徴は鷲、鷲のように神に向かって羽ばたく書だとヨハネ福音書は呼ばれています。
主を思い、聖母を思い、涙を浮かべてヨハネ福音書を書いていた聖ヨハネの気持ちはどうだったんでしょうか。
主なきあと、聖母を引き取ったヨハネの生活はどうだったんでしょうか。
主がヨハネに聖母を託したということで、聖子の時代から聖母(聖霊)の時代にバトンタッチしたことが明らかだと思われます。

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