john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

ひざまづかないことは悪いこと!?

2017-08-21 21:41:49 | カトリックのひとりごと
ミサでひざまづかないことは悪いこと?
私は、悪いことじゃないと思ってる。
確かにひざまづきたい。
でも、出来ない。

神様は全てわかってる。
神様は、人の心を見る。
ひざまづきたい、けれどひざまづけない。
でも、頑張って舌で受けている。
神様は全てわかっている。
私の苦しい胸のうちを。

ひざまづいている人の胸のうちもわかっている。

神様は、ひざまづいているのを見ているわけじゃない。
舌で受けているのを見ているわけじゃない。

どういう思いでそれを行っているのかを見ているのだと思う。

神様は昔のように動物などのいけにえを望まれない。
そして、イエズス様自らいけにえになられたから、御父への生け贄は完全である。
しかし、何かが足りない。
イエズス様はもう地上にはいらっしゃらないため、地上で御父に生け贄を捧げる事ができなくなった。
ゆえに、私達の中にいるイエズス様を通していけにえを御父にお捧げになるのです。

いけにえとは何か?
いけにえとは、私達の砕かれた心。
日常生活の中で、イエズス様ゆえに忍耐したあらゆる全てのことや償い、犠牲、祈り、感謝をさすのだと思います。

そうはいっても聖変化の時、聖体拝領のときはひざまづいて舌で受けるべきだと思っています。

しかし、私が考える神のみ前の究極の姿勢はひざまずくことではありません。

゛ひれ伏す゛です。

私は、形は大切なものだと思いつつも、神様を愛することが一番にならなければ、意味がないと思っています。

そういうことをいう人間は、多く多く神を愛さなければなりません。
私、自身もこれを言っていますから、多く多く神様を愛することを努力します。
愛さない人に代わって、愛することが出来るように祈っています。
もし、それがなければ、叫びはむなしいものとなってしまいます。
私達はファリサイ派のようになってはいけないのだとおもいます。
イエズス様に祈りを、苦しみを、砕いた心をいけにえとして捧げましょう。



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