john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

煉獄の霊魂のために祈りたい〜過去記事 今日はファチマの聖母の日なんで

2018-05-13 21:34:17 | Yブログからの転載
今日はファチマの聖母の日なんで、煉獄の霊魂のために
この記事をおささげします。
忘れてはならない人たち  それは煉獄の霊魂
私たちカトリック信者は煉獄の霊魂のためにミサを依頼し、また祈っています。
大抵の人は、たとえ不慮の事故だとしても、また病気で苦しみながら死んだとしても、ああやっと天国に行けたね、良かったね、と言います。
しかしながら、神様の正義・審判を受けた結果・・・・煉獄に行く人が多いのです。
よっぽど悪いことした人は別にして煉獄に行って罪を償い、天国に入る準備をしていると思って間違いありません。
しかも、煉獄にいる霊魂は、自分の祈りでは自分の償いの期間を短くできません。
短くする方法は、ミサを立ててもらう事、祈ってもらう事など生きている人にすがるしかないのです。
カトリック教会でも煉獄の存在はミサの説教の中でもお話しして頂ける事は無くなりましたが、煉獄は間違いなくあります。
この世とあの世は紙一枚隔ててつながっています。
私たちは、自分の為にも祈らなくてはいけないんだと思います。

いずれ天国に行くのだとしたら、煉獄に行く人たちもいずれ兄弟姉妹になります。
それに、私たちの死んだ親や兄弟姉妹、親戚、友人、知人たちがまだ煉獄にいるのかもしれません。

私は、ブログで知り合った方でその知人の方のためにミサを立ててもらったことがあります。
少しでも早く煉獄から解放されますようにと祈りを込めて・・・。

煉獄の霊魂のために祈る事は、自分自身の為にもなります。

もし、煉獄の霊魂が私たちの祈りで解放されたならば、その人はその人が万が一煉獄に入ったとしても神様に祈り続けて下さるでしょう。
また、生きている間も見守って下さっていると思います。

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皆さんは、大切な人をなくされた経験はありませんか?
親や兄弟、友達や恋人、大切な人など・・・
大抵の人は、天国まで行けるまで霊魂が清くないため、
煉獄というところに行き、罪を償います。
死ぬと自分では罪を償うことが煉獄でしか償えません。
(地獄へ行ってしまったら、永遠に罪はつぐなえません。永遠に地獄のままです。)
愛する人の罪を償うのは、生きている人の祈りとミサと犠牲しかありません。


その人たちを助ける祈りがあります。
祈らなくても、読むだけで助けることができます。
その祈りがこれです。
ただ、読んで下さい。
ただ、それだけでいいのです。




ああ、イエズスよ、
我等の罪を赦したまえ。
我等を地獄の火より守りたまえ、
また、全ての霊魂、
ことに、煉獄の霊魂を救いたまえ。
煉獄の霊魂は、私達の罪への傾き、弱さ、苦しみを生きている人間以上に理解したまう。
我等は、それらの霊魂が一日も早く永福の冠を頂く事を望みます。
ああ、我が愛するイエズス様、
母マリア様とともあなたに祈ります。
煉獄の霊魂の母である聖母マリア様の汚れなきみ心を通して、多くの霊魂が救われますように。アーメン。



最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 24

2017-12-29 07:11:04 | Yブログからの転載

絶え間ない愛の祈りに対するイエズスの要求



「私は、あなたにただ一つの要求をする。絶え間ない愛の祈りのみ」と仰せになった。

最初は、「イエズス、あなたを愛します」

のちに「イエズス・マリア、あなたを愛します」

そして、

「イエズス・マリア、あなたを愛します。霊魂を救って下さい。」で完成した。



まず、忘れてはならない事は、愛の生活をより完全に送るため、イエズスがご自分で、この絶え間ない愛の祈りを教えて下さった事である。

それは、コンソラータが自分で考えだした言葉ではないことである。

また、魚を自ら出せば死に、水の中におけば生きてどんどん成長してゆくように、恵みの生命も、絶え間ない愛の祈りの中で成長し、完成して遂に完全な自己放棄、すなわち神秘的死に至るのである。

言い換えれば、この愛の祈りは自己放棄への最も強い助けとなり、自分の考え、ことば、希望、趣味、心配、行為などを全部なくして、愛の祈りの中に溶け込み、愛の祈りと一つになって、自分がさながら愛の祈りの象徴そのものになっていくのである。その英雄的な自己放棄に達すると、イエズスは何の障害もなく、霊魂の中で主権者として働くことがおできになる。



イエズス様



「あなたの自己放棄の上に、私は素晴らしい事を行う。自己放棄にはどうしたら達しられるだろうか?絶え間ない愛の祈りによって!絶え間ない愛の祈りによってあなたのものは何もなくなり、全てが私のもの、私のためだけのものになる。」



「神へ乗り出しなさい。地上のあらゆるもの、全ての被造物に永遠の別れを告げ、絶え間ない愛の祈りによって、広い海原へ前進!前進!永遠の岸に向かって!」



「コンソラータ、悪魔や、情欲がありとあらゆる攻撃を試みても少しもかまわない。雷鳴、嵐、雷光など気にかけてはならない。自分に言い聞かせなさい。『私は、あるご聖体拝領から次のご聖体拝領まで、決して落胆せず、愛の祈りを続けます。それこそ、私の義務です。』

と。」



「絶え間ない愛の祈りはあなたの軍旗である。あなたの命にかけてこの旗を、敵に向かって守り抜きなさい。」



「旗手は軍旗を愛さなければならない。旗が決して敵の手に落ちないよう、何が何でも守り、旗のもとに生き、旗を胸にしっかり抱きしめて死ぬ。あなたも『絶え間ない愛の祈り』の旗を。

その通りにしなさい。どんな必死の努力を要しても決してやめず、絶え間なく愛の祈りを私に捧げなさい。」

「最後まで奮闘努力しなさい。ただ一つの愛の祈りもおろそかにしないと、断固として決心しなさい。愛の祈りが途切れても勇気を落とさず、また新たな努力を持って戦闘を開始しなさい。」



「あなたが私の全能を信じるなら、絶え間なく愛の祈りを唱えることができるよう私があなたを助けてあげる事も信ずるだろう。」



神はこれほどまでの努力を、全ての人に要求されるわけではないが、もし、ある選ばれた霊魂たちにそれを要求なさるならば、必ず果たしうる助力を与えたもう。

コンソラータは愛への特別な使命を与えられ、愛の祈りを忠実に唱えるかどうかの一点にその使命の成就がかかっていた。



イエズス様



「あなたの使命の為、イエズスが要求しているだけの事を、あなたはイエズスに与えねばならない。すなわち、愛の祈り。それが、全部である。そして、この絶え間ない愛の祈りに全部がかかっている。」



「私に絶え間なく愛の祈りをささげるよう自分の出来る限りを尽くしなさい。失敗しても私が償ってあげるから安心しなさい。私は、いつでも優しい。」



「あなたが戦い、転び、また立ち上がりーつまり努力しているのを見る事は私の喜びである。

あなたがどれくらいやれるのかを見るのが好きだ。とりわけ、あなたが、たとえ何が起ころうとも、泰然自若として起き上がり、また愛の祈りを続けることを見ることが私の一番の喜びである。」



この愛の祈りに霊魂の総力を瞬時の休みもなく打ち込むことは、まことに全てを(とりとめない無益な思いのひとつすら)うちくだくのだから、言語に絶する十字架であった。

この困難な道を進むコンソラータを勇気づけるため、過去、未来の事を思わず、ただ現在の瞬間、愛を持って生きるよう勧められた。



イエズス様

「目前のその一瞬間を愛を持って生きなさい。一日ではあなたに長すぎるから。」



ある日、イエズス様にコンソラータが質問をする。

「同じご要求を何度も繰り返し、新しい言葉でおっしゃって、単語が足りなくなりはしませんか?」



イエズス様

「私は、全能だから、永遠に至るまで、同じ要求を、絶えず新しい言葉で与えることが出来るのだ。」



コンソラータ

「同じご要求を何度もなさって、お飽きになりませんか?」



イエズス様

「いや、飽きない。いつまでもいつまでも飽きないだろう。なぜなら私の望みはただ一つ  

私を愛してくれること。」

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 23

2017-12-29 07:10:51 | Yブログからの転載


絶え間ない愛の心とは





イエズス様が「絶え間ない愛の心」についてコンソラータに教えられたことは、非常に重要なもので、間違ったやり方にならないようにしなければならない。





1.愛の心を起こすとは、簡単に愛の祈りを普通の射祷のようにたびたび唱える事にすぎない、と思うことはまちがいである。それも悪い事ではなく、多くの霊魂にとっては、それで十分である。
だが、イエズスがコンソラータに教えられたのはそれだけの目的ではなかった。
イエズスは新しい射祷を教えて下さったわけではなく、愛の生活を容易にする霊的な道を、霊魂に教えて下さったのである。絶え間なく、愛の心をおこすことが生きている霊的生活における霊魂の呼吸として、絶え間ないものとなるよう、意志を用いて努力せねばならない。
2.次に日常生活の仕事や義務の間に、どうして愛の心を絶え間なく起こすことが出来るだろうか?
イエズスが答えておられる。
「コンソラータ、私があなたの考えと言葉の責任を取ってきたように、愛の祈りにも責任を持ってあげよう。あなたが私に他の祈りをする時も、書く時も、黙想している時も、愛の心は絶え間なく続いている。心は、その時、言葉として愛の祈りを唱えられなくても、祈り、働く時間を、絶え間ない愛の心の続きとみなしてあげよう。」

修道院でも家庭でも、学校職場でも、共同生活のいろいろな義務がある。
また、会則によって命じられたり、自分で決めた信心の務めもある。だが、絶え間ない愛の心は、その祈りかつ働く生活とは全然抵触せず、日常の仕事も愛の祈りによって妨げられないし、仕事、務めの赦す限り、愛の心を起こすことを続ければ、霊魂も仕事、務めに妨げられない。祈り、黙想をしても、仕事、務めに励んでも、隣人愛、礼儀作法のため会話しても、精神を全部集中しなければならない仕事をしても、愛の心は、常に絶え間ないものである。





3.最後のヒントは非常に重要である。
絶え間なく愛の心を起こすことを、コンソラータは愛の賛歌と言っている。それを習慣的、機械的に何度も決まった祈りの言葉を唱えるに過ぎないと思ってはいけない。
事実、愛の祈りを唇で唱える事すら必要でない。愛の心を起こすとは単に口で唱える言葉の羅列ではなく、心の内的行為である。愛したいと望み、愛している意志の行為である。
それは、自然に、続いて、絶え間なく、静かに心の愛があふれてくるのである。
愛の祈りは、霊魂が完全な愛に集中しうるように助ける以外の何ものでもないことを、忘れてはならない。

その点について、イエズスは仰せられた。

「もし、善意に満ちた人が、私を愛し、生涯を唯一の絶え間ない愛にしたいと望み、起床の瞬間から眠るまで、心底からそれを実行するよう励んだならば、その霊魂の為、私は信じられぬほど偉大な事をするだろう。これを書いておきなさい。」

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 22

2017-12-29 07:05:27 | Yブログからの転載

「イエズス、マリア、(ヨゼフ)我御身を愛し奉る。よって霊魂を救い給え。」文語体



この愛の祈りの価値について



1.この言葉よりももっと短い言葉で、完全な愛の心を表すことは不可能である。
これは、あらゆること、すなわちイエズスへの愛、マリアへの愛、霊魂への愛を含んでいる。
これは、純粋な愛を表す言葉である。この言葉によって人は神に対し、あらゆるものの中で、最も優れた捧げもの、すなわち愛と霊魂を捧げるから。
2.同時にこの言葉は隣人愛を表している。他の霊魂のために、絶え間なく祈るこの言葉には、隣人愛の最高の表現がある。そしてイエズスが仰せられたとおり、煉獄の霊魂をも含む全ての霊魂を救うという目的のため、イエズス・マリアと協力することを表す。
3.次に述べる意味において、この愛の言葉は絶え間がない。すなわち「心を尽くし、精神を尽くし、霊を尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」との第一の掟を完全に、この愛の祈りが守らせるのである。
4.「心をつくし」愛の祈りは心から湧き出てこなければならない。絶え間なく熱烈に愛するのは心であり、心は愛の中心である。
「精神を尽くし」絶え間ない愛の祈りは、自由意志からのあらゆる無益な思いを自然に遠ざける。
「霊を尽くし」聖トマが解釈したように、これは全意志を尽くしての意味である。
絶え間ない愛の祈りは、感情によらず激しい意志によって支えられる。
「力を尽くし」できうる最大限の間、絶え間なく熱烈に愛するためには愛の一致に霊魂の全精力を集中しなければならない。
5.この祈りは完全な祈りであり、「常に祈れ」という主の命令を文字どおり実行する事になる。
6.この愛の祈りによって、霊魂は極めて偉大な克己、浄化、静かな自己献身の生活を送り、神の愛のいけにえになる小さな霊魂の列に加わる。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 21

2017-12-28 07:20:39 | Yブログからの転載

ルカ福音書

「この女の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したために。少なくゆるされた者はまた少ししか愛さない。」



イエズス様

「あなたは罪のあがないがしたいなら、私を愛しなさい! 愛によって償いなさい。」



他の人の罪を償いたい時も同じようにすれば良い。1936年の枝の主日に、コンソラータは御苦難の所を読んでいたが、ユダの裏切りの所でじっと黙想し、「全ての汚聖の罪を償うことが出来たら!」

その時、御声を聞いた。

「ええ、出来るとも! 愛によって、最もひどい汚聖の罪も償うことが出来る。愛によって苦しみ、自分を捧げ犠牲を果たすことが出来る。全ては愛を通して! ただ、愛を通してのみ!」



聖テレーズ

「愛の火は、煉獄の火よりも、もっと浄化力があることを私は知っております。」



コンソラータが、自分は欠点だらけだと告白した時、イエズスは仰せられた。

「私を愛しなさい。愛は全ての欠点を消すだろう。」



「いつも自分の事、自分がしたことを振り返ってばかりいてはいけない。自分の哀れな状態を超えた上をごらんなさい。いつもただ愛しなさい。」



「あなたは与えられた使命に生きたい? それではただ私だけを愛しなさい。いつも私を愛しなさい。そうすれば私の計画に完全に従うだろう。」



「ただ私だけを愛しなさい。私はあなたがいつも謙遜であるように見ていてあげよう。

あなたが私に留まれば、ぶどうの木の中にあるものは枝の中にも入っている。」



「あなたが私に生きていればいるほど、あなたは私の謙遜に満たされる。」



「私を愛する事だけ励みなさい。そうすれば愛深い人になるよう、私が見てあげよう。」



「愛は成聖である。私を愛すれば愛するほど聖人となる。」



「愛によってのみ完徳の最高段階へ上げられることを覚えなさい。」



永遠の御父

「コンソラータ、ただ愛のみが、戦いの勝利へ、あらゆる成聖の極致へ導くだろう。」





愛の生活の結実




1. 心の深い喜び
イエズス様

「私を愛しなさい。そうすればあなたは幸福になる。あなたが愛すれば愛するほどますます幸福になる。全くの暗闇に落とされた時も、愛は全ての戦い、全ての試練において、光、力、喜びをもたらすだろう!」



「もし、私の許嫁が全部私を愛するなら、まだ地上にいる間に、その心へ天国を注ぎ入れよう。天国とは私を愛する事によって楽しむ所だから。」



2.キリストの御苦しみに参加する事
イエズス様

「愛はあなたを苦しみの極致へ連れていくだろう。」



「よく苦しむためにあなたは絶え間なく愛さねばならない。熱烈に愛さねばならない。」



「愛は苦しみよりずっと偉大なものだ。あなたの愛が強まれば強まるほど苦しみは完全になる。」


3.愛によってのみ、苦しみを深い喜びに変え得ること
イエズス様
「愛をもって苦しみを受ければ、もう苦しみでなく喜びに変わる」



永遠の御父

「コンソラータ、私はあなたに苦しみの喜び、苦しみの最中にも喜ぶことのできる恵みを与えよう。」



コンソラータは、ある日自分のあやまちを嘆き、痛悔の涙にくれていた。

コンソラータ  
「イエズス、私は全く臆病で勇気が足りません。」

イエズス    「では、私の全能の力に参加しなさい。」

コンソラータ  「どうしたらよろしいのでしょうか?」

イエズス 
「愛に留まりなさい! 愛に留まる事によって、全能の力に参加すればどんな強者よりもずっと強くなる!」



4.深い、動かしがたい霊魂の平安である。



イエズス様

「あなたはただ私を愛する事だけ考えなさい。他の全ては、最も細かい事柄まで私がよくしてあげよう。」



コンソラータは書いた。

「イエズスは私の最も細かい事まで全部考えておられます。イエズスが私のうちに働いておられるので、コンソラータは、イエズスを愛する事だけ考えていれば十分です。日常生活の事は、もう私の興味を引いてはならぬことで、天上の事だけを心に入れましょう。天国の生活は愛する事のうちにあるので、愛だけに行きましょう。」



ある日、コンソラータは何もしていないから、永遠の幸福をうる価値がないと言った。

しかしイエズスは仰せられた。

「何もしていないから永遠の喜びにふさわしくないって? 教理はなんと教えているか言ってごらん。私を知り、私を愛し、私に仕え、それによって永遠の喜びに入るために、あなたは創られたと書いてあるだろう。で、あなたは私を愛していない? 仕えていない?

そう、ではあなたは天国の光栄と喜びを得る資格があるではないか! 愛の為ではなく、あなたには、それをうる権利があるから、天国を与える。」


全ての欠点は、愛によって消えていく。
そう言われていますし、その通りだと思います。


私は、一つ一つのブログに感想を書いていますが、読み手により書いていけばいいと思います。
でも、イエズス様に召された者たちは、だいたい似ていくのです。
神様が愛であるように、私たちも愛の色に染まっていくのです。


最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 20

2017-12-28 07:15:06 | Yブログからの転載

完全な愛に達する心の慎み》


イエズス様


『コンソラータ、私への愛を妨げるものはなんだろうか?それは、無益な考えと他人の事柄に対する興味だよ!」


「コンソラータ、あなたがじっと空を見上げて黙想する時、目を隣の家の窓に転じれば、目の窓から、死が心に入るだろう。


同じように、あなたが私を愛する代わりに目を他人のすることに向ければ『死刑だ!』


これは十分な教訓でした。」



「私に従いなさい、他の修道女の事があなたに何の関係があろうか?あなたはただ私に従う事だけ考えなさい。」



「コンソラータ、天国では、各階級の天使たちが各自の役を果たしながら、決して他の階級の役をうらやんだり、ねたんだりしない。


そのように修道院でも、各自、他の霊魂に与えられたものをうらやんだり、ねたんだりせず、各々の使命に励まなければならない。あなたの修道院でも、聖堂でも、他のどこでも、あなたは、私の小さな熾天使(セラフィム)でなければならない。だから他の修道女の使命をうらやんだり、ねたんだりせず、ただ愛する事に励みなさい。わかりましたか?」



聖母マリア様からコンソラータへ


「他の修道院に起こっていることについて沈黙を守ろうか、話そうかについて決しかねた時、聖母マリア様が解決して下さった。



「他の修道院に起こっていることについて、心を煩わす必要はありません。あなたはただ一つ、愛するという義務をもってこの世をさすらう巡礼者、他国者だと考えなさい。」





イエズス様



「全てのこと、全ての人を忘れ、ただ私をもっと愛する事だけを考えなさい! この愛する事だけに、考えと言葉と心の慎みのあらゆる努力を集中しなさい。」



「私を愛する事、愛の限りを尽くして苦しむこと以外は、何も、考えてはいけない。それで十分!」





「コンソラータ、もしあなたが断固として、他のあらゆる考えを追い払い、厳しくあらゆることを抑えれば、まざまざとイエズスを体験するだろう。」





「もし、あなたが自分を消してどんな考えも外から入るのをゆるさぬなら、私があなたのうちで考えるようになる。もしあなたが話さないなら、私があなたのうちで話す。


もしあなたが自分の意志に従わないなら、私があなたのうちで働く。もはや生きるのはあなたではなく、あなたのうちで私が生きるようになるだろう。」





「永久にあらゆる考えと言葉に別れを告げなさい。他の人々はその人のやりたいようにやらせておきなさい。あなたは私のうちにとどまっていなければならない。あなたは多くの実を結ぶだろう。私があなたのうちで働くから。」





「豊かな実を結びたいと熱望するなら次のことをよく覚えておきなさい。聖福音の中で私は『もし、あなたが特別の苦業をすれば多くの実を結ぶだろう』とは言わず、『もしあなたが私のうちに留まるならば、多くの実を結ぶだろう』と言っている。


だから、ぶどうの木である私としっかり一致して離れぬようにあらゆる努力をしなさい。


ただ一つの考え、無益な言葉で、『イエズスのみ!』という考えから離れてはならない。私があらゆることを考えてあげよう。








聖パウロ



「たとい私が人間と天使の言葉を話しても、愛がなければ鳴る青銅と響き渡る銅鑼(どら)に等しい。たとい私が預言の賜物を持ち、全ての奥義と学問に通じ、山を動かすほどの充ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。たとい私が持っている全てのものを施し、私の体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところかない。」








あらゆるよいわざ―――学問、信仰、施し、犠牲、殉教すらも、愛がなくては、無価値で、無に等しいなら、ただ愛のみが重要で、真に全てである。


だから偉大なわざに召されていず、それを遂行できぬ霊魂でも、もし心の限りを尽くし、精神の限りを尽くし、全力をあげて神を愛するなら、全てを捧げる事になるのである。


これこそ小さい聖テレジアとコンソラータが進んだ「愛の道」の出発点であった。





イエズス様





「私を愛しなさい。コンソラータ、私だけを愛しなさい。愛は全てだから、私を愛すれば、あなたは私に全てを与えるのだ。」





「あなたが私を愛する時、イエズスがその被造物から望む全てを捧げているのだ――愛を!」





「愛は全てである! もしあなたがこの決心にだけ集中すれば、あなたは私にすべてを与えるのだ。」





「私は、人々が愛の心から私に仕えてくれることを切望している。だから罰を受けるのを恐れて、人々が罪を避ける事を望まない。私を愛すれば、もう罪を犯して私を怒らせることもなくなるだろう。二人の人たちが本当に愛し合っている時、お互いに相手を怒らせることがないように。」








コンソラータがイエズス様に尋ねた。


「イエズスよ、もしある人が仕事に不熱心の時、非難されるなら、熱心に励んだなら祝福されるはずでしょうか?」








イエズス様





「熱心に励むよりも、多くの愛を持ってするように努力しなさい。あなたは働くにも食べるにも、飲み、眠るにも、全ての事を愛をもってやりなさい。私は愛にかわいている。愛こそあらゆる仕事の中に私が求めているものである。」





「あなたのするわざは、愛に進歩すればするほど、その愛に比例して価値を増すだろう。」





「あなたが生涯に出会うあらゆる嫌なことをばらの花に変えなさい。その花を愛をもって集め、私に捧げなさい。」





「私は、できうる限りの愛を尽くして捧げられた贈り物を喜ぶ。その時、どんなつまらないものも私にとって貴重なものとなる。」





「いや、コンソラータ、違う! 私はあなたに大きなわざではなく、小さなわざを求めているのだ! でもその小さなわざを愛の限りを尽くして捧げなさい。」








ある朝、コンソラータは聖母マリア様のために、花束を作っていた。だが、その花束はかなりしおれていたので嘆いていたら、優雅なお声がした。





「常に美しい徳の花を神に捧げられるとは限りません。でも、その花に愛を添える事ならいつもできます。・・・・イエズスは花を眺めず、それに添えられた愛をご覧になります。」





イエズス様





「あなたは欠点だらけだ。でも欠点がなくとも、私だけを愛さず、私と人とに愛を分けている者より、欠点だらけでも、全く私のものになった心のほうが私は好きだ。」





「私は最も熱愛する霊魂を、私は最も愛している。」



神様は、ただ愛だけを、愛だけを私たちに望んでおられる。
愛というと、ちよっと照れ臭い感じがするが、それでも愛は全ての人に心地いいものである。
完璧な人より、欠点だらけでも神様をすごく愛している人のほうが神様に愛される。
まるで、自分を言っているみたいだ(笑)
どんなにつまらない贈り物でも、愛を添える事ならできる。
神様は、私たちの愛だけを見、その愛だけを欲し、その愛だけに満足する事を求めておられる。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 19

2017-12-28 07:10:59 | Yブログからの転載

完全な愛に達する口の慎み》





イエズス様


「もうあなたの考えは、全部私のものだから、今度はあなたの言葉が全部ほしい。


あなたが全く私のものになるため、絶え間なく、沈黙をしてほしい。少しも恐れてはならない。私に信頼しなさい。」





「あなたはただ、私の事だけ考え、話しかけられない限り決して話さないでほしい。あなたが話しかけられたら私が返事を与えよう。あなたは自分の口から出る答えに驚いてはいけない。その答えを与えたのは私だから。」





「休憩時間の時は、会話が有害な方面に傾いていった時だけ話しなさい。そして会話の主題を変えなさい。」





「常に沈黙を守りなさい。必要なことすら最小限に慎みなさい。その代わり全ての人に微笑みで答えなさい。そしてその微笑みをいつも続けなさい。」





「あなたが二つの仕事のうち、どちらを選ぶか迷ったときは、より一人でいられる方、より沈黙を守れる方、より愛する事ができる方をいつも選びなさい。」








コンソラータは単純率直で、自分をも人をも、ごまかすことが出来なかった。


いつも自分が感じたことをそのまま表したので、何度も言いすぎたり、人と衝突したりして、痛悔と謙遜の材料となった。


あまりに恥じ痛悔するので、ある日、勇気づけるためにイエズスは仰せられた。





「本当に私に属して、私の所有である霊魂は、ちょうど酢や水と、正反対の油が溶け合わないように、真理にそむき、単純率直、従順と正反対のものに溶け合わなくなる。


悪魔が誘惑して愛徳にそむく考えを入れるのに成功しても、長くとどまることが出来ずに、すぐ逃げ出してしまうのはそのためだ。


だから恥じる事ばかりせず、こんな機会に、将来もっと注意深く警戒するよう自分を強めなさい。」





話しかけられなければ決して話さぬという誓いを断固として守り抜きなさい。


そうすれば、全ての欠点、慎みのない軽率な行いを避けることが出来るであろう。


そして確かにあなたの答えは常に私が望み、祝福するものとなろう。」

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口は、禍のもと・・・・ということわざがありますね。
昔の人はもとより、現代に生きている私たちだって、感じる時があると思います。
しかしながら、会話の流れでつい口がすべってしまったり、日頃の不満がついつい爆発して暴言を言ってしまうことは、よくある事とは言いませんがありますね。


神様は、人が生きている間に言ったことに対して問いただすと言われています。
これは、ちょっと怖いですね。
しかし、よく考えれば納得できます。
私たちが、日頃よく罪を犯す回数の多いのは、口によってです。
聖書では、口を制する事ができるならば聖人になれるとまで書いています。
しかし、口を制したものは一人もいないとも書いています。
口は、大きな罪は犯しにくいが、小さな罪を頻繁に犯します。
しかしながら、それを繰り返していると、やがて大きな罪に匹敵するような罪になるのです。
その一つの例は、いじめですね。
「バカ、アホ、死ね、」と一回くらいなら、冗談かと思うでしょう。
(本当は一回でもだめですが)
しかしながら、それを何十回と言い続け、言われた人がもしも自殺したとしたら
これはどうでしょうか?
これは、刃物で人を刺して殺したことと同じくらいの罪となると思うのです。
言葉が形のない剣となって、言われた人の心を突き刺したからです。


人間は、肉体だけで生きているのではありません。
魂と言うものがあり、魂と肉体を合わせて人間です。
他人の肉体を傷つけるだけが罪ではなく、他人の魂を傷つける事も罪なのです。


ゆえに、私たちは他人に対して、どういうことを言うのか、考えて話をしなければなりません。
そして、他人を傷つけないように配慮しなければなりません。
ゆえに、カトリック者として、聖体拝領は口で受けなければならないと言っている(これは私の事です)そのためなのです。
まず、最初に口を清めなければならないからです。


また、最も口での罪を犯すのをすくなくする方法を選ぶことも必要です。
それは、より一人でいる時間を増やすことです。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 18

2017-12-28 07:05:37 | Yブログからの転載

コンソラータ、あなたが望まないのに、自由に霊魂に入ってくる考えは、不忠実のしるしとならない。」



現代のマス・コミ時代において、私たちの霊魂は、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ポスター、ネオンサインなどによって、無益な考え、つまらない空想の洪水に取り囲まれている。

完全な愛に達するため、それらを節制する事はもちろん、たびたび犠牲にする必要がある。

度を過ごすことによって、内部的外部的沈黙が難しくなるからである。

生きている限り、完全に全ての無益な考えを遠ざける事は不可能である。しかし、神を愛するため、遠ざける努力をすることは、必要で、イエズスはこの弱い人間の努力だけを望み、それで満足しておられる。努力の多少に、愛の完成がかかっているのである。



イエズス様



「私はあなたを苦しめるこの激戦を取り除かない。この戦いは私に光栄をもたらし、多くの霊魂を勝ち得させるから。朝から晩まで霊魂に入り込んで、愛を妨げる無益な考えが、入り込もうとするたびごとに、『あなたと多くの霊魂のために!』と祈って、捧げなさい。

そうすればその考えを、多くの霊魂への恵みと祝福に変えよう。」

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私は、今、思う。
人を救うイエズス様に協力するとはどういうことなのか??・・・・を。
一言で言うと、聖なる人間になるよう努力しなければならない。
とは、言ってもすぐに聖人になれるわけではなく、何年も何年もかけて
聖人らしくなっていくと思う。
一つ一つの小さな勝利が積み重なって、だんだん信仰が固まっていくと思う。
私は、カトリック信者になってから、放蕩息子のような生活を送っていました。
しかしながら、神様の影はたえず私について回っていました。
罪深き生活をしていても、罪を犯すたびに自分が傷ついていました。
だからと言って、夜遊びをしていたとか、お酒を浴びるほど飲んでいたとか、
女遊びをしていたとかはないのです。
あくまでもカトリック者としての務めをしていなかったのです。
私は、10年以上告解をしていませんでした。
そして、2年前転機が訪れたのです。
たぶん、イエズス様が見るに見かねて、私をカルメルの茶色のスカプラリオの着衣式に連れて行って下さいました。
なぜか?
このままの生活をしていると、私は地獄行きだったのかもしれません。
これを境に私は変わりました。
それは、自分でもわかりました。
それからというもの、神様は溢れるほどの恵みを下さいました。
この恵みは、もらった者しかわかりません。
それは、目に見える恵みでした。そして、感じる恵みです。
詳しくは書くことは出来ませんが、それは奇跡に近いものです。


人は、聖なる者になろうと努力するにしたがって、気持ちが次第に変化していきます。
裁きが怖いから罪を減らそう、という思いから神様を苦しめたくないから罪を減らそうになります。
私は、神を愛します。という思いから、私は神を愛します、そして、人々にも神を愛させたい。になります。
そして、人々を救っているイエズス様に協力したい、という思いになります。
そのためには、まず、イエズス様とマリア様を愛する事を学び、自分を聖化していかなければなりません。
聖化の方法はいろいろあり、ミサ、祈り、犠牲、自分の欠点を直すこと。などなどあります。
聖書にも書いてあるように、地の塩となるように努めなければ、人にものをいうことは出来ません。
もし、司祭がいい事を説教したとしても、実行が伴っていなければ何の意味があるのでしょう。
自分が出来ない事を、人に言うことは出来ないのです。
自分が祈っていないのに、人に祈れとは言えません。
私は、いつも思っています。
多くの人が天国に入ってほしいと。
それは、今、生きているひとたちばかりではなく、煉獄の霊魂も含んでいます。
みんなが幸せになりますようにと願っています。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 17

2017-12-28 07:00:09 | Yブログからの転載


完全な愛、完全なるイエズスとの一致に達するには、精神と言葉と心の童貞的精神を保ち、
①考えの慎み ②口の慎み ③目の慎みを実行せねばならぬ。


「独身の人はどうして主に嘉せられようかと主のことを思い、・・・・結婚しない女と処女とは身体と心とを聖とするために主のことを思い・・・」


この聖パウロの言葉によれば、童貞であることは心が神と婚姻し、神のみを愛し、神の事だけ考え、神への愛と一致に反する事をすべて遠ざける事である。その純粋な童貞性を精神と舌と目において実行するのである。





イエズス様


「あなたは祈る時、沈黙に包まれる必要を感ずる。そのように、私と一致するには深い沈黙が精神の最奥の実存を支配する必要がある。どんなちょっとした騒がしさも祈りを妨げるように、あなたの気をそらすどんな些細なことも一致を妨げる。常に全くの童貞的純粋さが必要である!」





「愛に反するものを遠ざけるばかりでなく、神に自分を完全に捧げるのに、妨げとなるものは、全て除かなければならない。」





「私の心は、あなたの愛とともにあなたのあらゆる考えを渇望している。・・・・私はあなたの全て、最も小さい事まで良くしてあげるから、あなたの考えを全部私に向けなさい。あなたはただ私の事だけを考えていなければならない! 他の事を考えれば、私の頭をさす茨のとげのように私を苦しめるだろう!」





「茨の冠をかぶったイエズスをごらん! あなたもイエズスにならって、心にいらない考えが一つも入らないように頑張りなさい。そうすれば愛のために妨げが無くなり、多くの霊魂が救われるだろう。」





「頭に茨の冠をかぶせられた瞬間から、私はもう二度とそれを脱ごうとしなかった。あなたも私と同じようにしなければならない。あなたの唯一の考えは、イエズスを愛する事でなければならない。


どんな時、茨の冠を脱いでしまうかわかりますか? それは無益な考えを自由に霊魂に入れて、外に追い出さない時だ。」





「コンソラータ、あなたが望まないのに、自由に霊魂に入ってくる考えは、不忠実のしるしとならない。」
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現代は情報社会だ。

いらない情報が氾濫し、目、耳、から入って来てしまう。

私達は、それらを識別し切り捨てていく努力をする必要がある。
意外に考えの慎みは難しいもの。

多くの人は、なにかしら考えているからだ。
修道者でもない一般人がどうやったら、心の沈黙を保てるのだろうか?

保てるというより自分でつくるしかない。
ただただ、物事を善意に考え、祈るほかない。
だから、イエズス様はコンソラータに愛の祈りを絶えず祈れとおっしゃったのだと思う。
それは、いらない考えから身を守る、絶対的な盾だからだと思う。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 16

2017-12-27 07:25:46 | Yブログからの転載

イエズスのコンソラータに対する教えの目的は、絶え間ない、生き生きとした非常に親密な一致に導くことだった。


だからイエズスは、御自らコンソラータを指導し、主から注意をそらすことを禁じ、次第に、非常に厳しく、ついには、少しでも自由に主から心を散らすことを禁じた。





イエズス様からコンソラータへ


「私は、あなたに何を望んでいるか? それはほんの一瞬間も気をそらすことのない、絶え間なき一致である。人と会話せねばならぬ時ですら、私と一致していなさい」





「さあ、いつもあなたと私とたった二人きりで親密に生きよう。目や耳からいらない考えが心に入るのを防ぎなさい」





「私は、いつも約束を守る! もしあなたが常に私のうちに留まるならば、あなたは決心し約束した事を守るだろう。ブドウの木に見出されるものは、その枝にも見出されるものだから」





「もしもあなたが私のうちにあり、私たちが一致してひとつのものであれば、あなたは善い実をたくさん結び、強くなるだろう。あなたは大海の一滴の水のように消えてしまうから。


私の沈黙はあなたの中に入り込み、私の謙遜、潔さ、慈愛、寛容、忍耐、苦しみへの渇き、どんな犠牲を払っても救いたいと望む救霊への熱心も、あなたのものとなるであろう。」





「あなたがわたしを愛し、私のために多くの霊魂を救いたいと渇望するならば、いつも私のうちに住みなさい。仕事の時も休憩の時も、・・・・片時も私を離れないように! そうすれば多くの実を結ぶだろう。


聖ぺトロをごらん。ペトロは一日中漁をしていたが、何もとることが出来なかった。それが私と一緒に網を下すやいなや、網が裂けそうなほど魚がとれた。もし決して一時間でも私から離れなければペトロと同じになる。あなたが自己浄化への勧めに従うたびごとにそれはあなたにとって網を下すことだ。それによって多くの霊魂が網にかかるだろう。その裂けそうな網を私が引こう。天国であなたは網にかかった霊魂に会うだろう。」





「神は愛である。愛にとどまるものは神に留まり、神は彼に留まり給う。私は、愛である。そして、あなたが愛に留まる限り、あなたは私に留まり、私もまたあなたに留まる。だから私が沈黙して、もう私の声が聞こえなくとも、あなたが私を愛する限り、私はあなたのうちにあり、あなたは私のうちにいる! このことを忘れてはいけない。あなたはいつも私だけを愛したいと望んでいる。


だから私はいつもあなたのうちに留まり、あなたは私のうちに留まっている。」

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映画『沈黙』がどのような映画だっのか、見ていないのでわからない。


神様が試練の時、お隠れになったとしても、その時こそイエズス様はおっしゃってくれる。
『私はいつも、あなたたともにいる』と。
その時こそ、いつもにも増して私たちのそばにいる。