徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

宇都宮戦跡巡り~ 大谷地区戸室山地下発動機工場(2)

2016-08-05 08:32:21 | 自衛隊基地祭他ミリタリー関連
戸室山地下発動機工場


内部から入口を観たところ かつてあった工場の内部を見ることはできず、奥までは入ることはできない。
ガスなどが滞留していて危険だという


地下工場内部の構造
採石場を利用して建設された地下工場の内部は用地が同じ平面になく,段々の傾斜で地下敷地が構成され,
同一平面を大きく用地として確保できない事が難点であった。戸室山工場の場合は地下3階・3面に敷地が分かれ,
北向きの位置に最も深い作業場があり,各措は石段で区切られていた。最も広い面積をもつ南側地下1楷の作業場は,
縦(東西)150m,横(南北)100mの広さであった。地表から作業場に至る岩かぶりの厚さは55mであり,
爆弾の直撃にも十分耐え得る厚さである。


地下工場の建設              .
 大谷工場の用地選定は1944年11月~12月を通して進められ,用地の接収は宇都宮軍需管理部を通して
中島飛行機と地元の石材業者との間に契約が成立した。地下工場の建設工事が一斉に開始された時期は1945年1月である。
当初の工事は地区内の戸室山.弁天山.揚場山などの旧採石場を工場用地に改変する作業であった。


新地下工場の中心となる戸室山作業所では,採石現場を発動機生産に適合する用地とするため,敷地の高低をならす作業が開始された。次いで工場内部と外部の連絡を密にし,物資輸送のトラックが工場内に入れるようにする隧道(トンネル)の開さく工事がスタートした。
この掘開作業はコンクリート用セメント等の建設資材の不足に悩まされながら,旧帝国海軍の建設隊が主工事を担当した


数百の人員を動員し,ダイナマイトで岩石を爆破して開通させたこのトンネルは,
入ロが現在も戸室山に残存し,海軍の錯のマークをかすかに判読することができるが,地元では「海軍隧道」と
このトンネルを呼んでいる。

錨⚓と隧道の文字  隧道(ずいどう)とはトンネルの事


戸室山工場は陸軍機用のエンジンを生産する事業所であったが,海軍の所属部隊が陸軍関係の工事に尽力することは当時の
陸海軍の慣例からすれば,きわめて異例の措置であった。
ここで製作されたエンジンは「ハ45-21」通称:誉エンジン。中島飛行機が製作した最後の傑出した空冷航空エンジンであった。
主として陸軍の4式戦闘機キー84:「疾風」に搭載されたが、海軍でも大戦後期の
局地戦闘機「紫電」及び「紫電改」   陸上爆撃機「銀河」   艦上攻撃機「流星」  艦上偵察機「彩雲」
等に搭載されたことから、そんなことが工事に起因しているのかもしれない

拡大



1945年3月になると完成に近づいた戸室山工場の敷地内では,周辺の整備や電力の引きこみ,物資や人員運叔のための
エレベーターの敷設が急がれていた。工場内で使用される工作機械類は,武蔵製作所からひとまず埼玉県大宮市周辺の森林に
移送され、大谷工場の内部整備の状況を待って漸次各工場に配置・据付けを完了した。




工作機械類の大谷工場搬入に動員されたトラック延台数は約1,000台であった。輸送には東武鉄道荒針線の車輌も動員された。
終点荒針駅(現宇都宮市役所荒針出張所)と戸室山主工場南側入口との問には引込線線路が敷設され,
直接起重機による車輌からの物資搬入が行なわれていた。かくして大谷発動機工場は敷地の全面完成を待たずに発動機生産を
1945年3月31日開始した。本格的な地下操業のスタートである


かつて引込線線路が荒張駅(現 城山市民センター)まで敷設されていた。 今は細い道路


地上の付属設備として,戸室山工場敷地内に管理凍及び食堂など数棟,大谷街道沿いの亀川地区内(現大谷保育園・湯殿山神
社北側)に事務凍及び医療設備,駒生町中道地区(現中丸療養所バス序南側)に従業員宿舎十数棟等が整備された。     

トンネル入口前の広場にはかつて数棟の建物があったという


発動機関係で予定された計画では実験室14が設けられる予定であったが,完成試動した実験室は,多気山分工場の2室のみであった。



地下工場の生産予測
 1945年8月終戦をむかえた時期.日本の舵空機全地下工場における生産は,1か月に30足らずの発動機,100機の軍用機と
2~3千の部品の生産をあげるにすぎない状況であった。もし8月に終戦を見ずに戦争が継続された場合・その生産の発展は
どのように予測されていたのであろうか。疎開当初における関係者の最も楽観的な予測は,1945年盛夏までに,最高水準
(1944年半ばにおける実績)の約半分の数字をあげ得るという観方であった。しかしこの予測は8月の実際の数字により
完全に否定された。中島飛行機関係者はより現実的に,全体の経済情勢が1944年の水準を維持できると仮定した場合・
1945年12月までに最高水準の40%の業績を達成でき得ると期待していた。しかし現実の空襲の動きを見れば,これも甘い
希望的な観測の数字に過ぎなかったといえよう。

大谷工場における発動機生重実数 1945年
            6月    7月   8月     計       合 計
新発動機     1     4     6     11
修理発動機      18     25     12     55       66

沢山の銃後の学生が勤労奉仕で動員され製作修理に当たっていた様だ



米軍から見た地下工場の存在               ’
太平洋戦争の期間中・大谷発動機工場に対する直接の空襲は一度もなかった。地下工場は樹林帯の緑のベールに覆われて
米側にその存在が暴露されることを完全に免れたのである。米軍は終戦に至るまでその所在すら知り得なかった。
巧妙に偽装された地下工場は,戦後通報を受けて航空写真を撮影しようとした米軍機ですら,その入口の位置を明確に
把むことが出来なかったという。 またたとえ発見され爆撃が実際に行われたとしても,地表からの深さ55mという
地下工場の厚さにより,内部の施設を破壊することは不可能であった。
地下工場の建設が1945年過ぎに行われたことも,終戦までの短い時間的制約から、米軍が地下工場の状況を知り得なかった
理由の一つとなった。米軍が日本全体の地下施設に知り得た情報は極めて貧弱であり,所在を確認していた地下工場は
わずか3箇所にすぎない。地下工場の所在の秘匿という面に焦点を絞れば、大谷工場を含めて日本の航空機生産の
地下施設への移動はきわめて絶大な効果をあげ得たと評価できるであろう。

地下工場付近にあった擬装処理された防空監視塔


戸室山の発動機工場以外にも組み立て工場などが点在していた


戦後米軍が撮影した 疾風の胴体組み立て工場  上の資料地図からすると、渡辺山か丸王山の地下工場だろうか


茅葺屋根が残る大谷の旧家。この裏辺りが渡辺山である  大谷石の採掘口跡が残る


戦後米軍が撮影した大谷石の地下採掘空間。これだけの広さの場所は現在の大谷資料館ではないだろうか


大谷資料館
石採石場跡に関する資料館。
この資料館の圧巻は地下採掘場跡。そこは2万平方メートルにも及ぶ大空間で、深さは30m、最も深いところでは地下60mも
あるという巨大な地下空間。



大谷資料館裏手にある 今は使われていない採掘口


(以上文献資料から引用)



戸室山地下発動機工場で生産修理されたエンジンについて
「ハ45-21」誉エンジン  空冷星型
「ハ45」は,零戦,隼などが搭載して傑作と称された「ハ25」(海軍名称は「5栄」)を18気筒化した発展型である。
シリンダー容積は変わらず・外径も1,180mmと「ハ25」に比較してわずか30mm増加しただけで,パワーは約2倍も向上
(離昇出力2,000hp)した。ほぼ同一パワーのアメリカの傑作P&W R-2800ダブルワスプ(F-6F、F-4U、P-47、B-29などが搭載)
と比較すれば,直径は154mm小さく,重量は165kgも軽い835kg,燃責もはるかに少なく,まさに芸術品といっても過言ではなかった。

キ84乙“丁2-301"号が搭載した「ハ45-21」誉エンジン。 右は「ハ45-21」の後面
FRANK と表示されているのは米軍のキ84-四式戦 疾風のコードネーム
当時の米軍は日本の軍用機を戦闘機は男性の名称で、爆撃機などは女性の名称をつけて呼んでいた(ゼロは例外)


本エンジンを採用した有名な機種には、爆撃機銀河、偵察機彩雲、戦闘機の疾風や紫電改などがあり、第二次大戦末期の日本軍機に搭載された。
零戦などに搭載された栄は、1シリンダー当りは1シリンダー当り70hp程度を発揮するエンジンであった。これに対して目標とする2,000馬力を出力するには、クランクシャフトの回転数を増やし、吸気系統(ブースト圧、吸気ポート形状等)を改善、さらに高オクタン価ガソリン(オクタン価100のガソリン)を使用してノッキング(デトネーションの帰結)を防止するなどの改善が必要であった。
さらにシリンダーヘッドの冷却フィン、クランクシャフトとコンロッドの軸受、クランクケース等にも性能を限界まで引き出すための設計を試みることとなった。 完成した高性能のエンジンに陸軍大臣から中島飛行機に対し感謝状が贈られたとある
しかし,それだけに各部分に無理を生じ,高オクタン燃料と高品質潤滑油、高い製作技術精度、優れた整備能力を不可欠としたが,大戦末期の日本はそのいずれも欠けており,せっかくの傑作エンジンも故障,トラブルに悩まされて額面どおりの性能を発揮できなかったというのが実情である

各シリンダー,および減速室,カム室カバーをすべて取り外した状態。


(文林堂 世界の傑作機より)


この写真は1973年、28年ぶりに母国の空を飛んだ 四式線 疾風の北宇都宮駐屯地でのエンジン調整中飛行前のショットである
写真の日付を見ると昭和48年11月18日となっている。トリミングした紙焼きのスキャンしたものでぼけているが・・
当時中学1年だった私は父親の1眼フィルムカメラを借りて、快晴の秋空を飛翔する疾風を何枚か撮影した。
その写真、記事はいずれまた・・




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