:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 飯舘村(福島)からの最新レポート

2017-08-14 00:46:47 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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飯舘村(福島)からの最新レポート

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ほぼ1年半ぶりに飯館村の役場に菅野村長を訪ねた。用件は今年の11月14日(火)に東京のトッパンホールで開くコンサートのために「名義後援」を依頼するためだった。

ヘンシェルカルテットと言うドイツの第1級の弦楽四重奏団の特別公演に、なぜ飯舘村の「名義後援」が?と思われるかもしれないが、それは、東京都下に避難している3.11「東日本大震災」避難者向け定期便にコンサートの案内を載せてもらうために被災地の自治体の「後援」が必要だったからだ。

 

私は昨年5月7日のサントリーホールにおけるシンフォニー「罪の無い人々の苦しみ」に避難者を招待するためにも、同じ「定期便」を使わせてもらったが、その時は福島第1原発の敷地がまたがる双葉町と大熊町の後援を得た。今回は昨年のコンサートで講演して下さった菅野村長が快く「後援名義」を貸して下さることになった。

用件はそこそこに、村長はその後の状況を話しはじめた。

原発事故のあおりで全村強制疎開が決まる前は、飯舘村に6000人余りの住民がいた。村長の努力もあって、飯舘村には「飯館牛」などブランド化された特産品や、田舎の小さな村には異例の青少年の集団海外旅行と国際交流など、垢抜けした施策で全国に冠たるモデル村の様相を呈して栄えていたのだが、3.11の強い放射性降下物の影響で、心ならずも全村民が避難することになった。それに伴い村役場も疎開して飯野町役場に間借りした。

5年経ってやっと1年前に避難命令が解除され、帰還呼びかけが行われたが、帰ってきた村民は今のところ役場の職員とその家族を含めてわずか350人にとどまっている。菅野氏によれば、向こう4年間をシュミレートしても、帰還してくるであろう村民の数は1500人程度に止まると見られている。

決定的なのは、3.11以前には1500人いた飯舘村の小中学生のうち、村に戻ったのはわずか14人にしか過ぎない事だ。飯舘村にいた児童の大部分は、今も全国の700の学校に分散していて、この先、飯舘村の小中学校に子供たちが戻ってくる展望はほとんどない。小さな子供に持つ若い家族は、放射能の影響を恐れ、子供たちの将来を思って飯舘村を捨て、早々と新天地に根を下ろしてしまっているのだろう。

菅野村長以外からもいろんな話を聞いた

他方では、強制疎開以来、支給された国の補助金や行政の支援だけを頼りに村外で細々と生き延びてきた老人たちは、冷酷にも相次いで補助金や支援が打ち切られ、たちまち村外避難生活が成り立たなくなり、心ならずも土地と家のある村に帰る以外に選択肢がない袋小路に追い込まれるのだが、帰りたくても6年以上住まなかった家はネズミや野生動物たちに荒らされてすでに廃屋同然になっている。そのままでは居住に耐えられるものではないが、住めるように手を入れるだけの資金もない。

村に残った家のほとんどが住める状態にない現実を察知した国は、何が何でも帰還者を増やそうとして、住めなくなった家を取り壊して更地にする費用を国が負担することにした。住めなくなった廃屋は取り除いてやるから、何が何でも自分で跡地に家を建てて住め、と言うわけだ。

広くゆったりした長年住み慣れた故郷の家が無残にも取り壊されていくのを、人々はどんな思いで眺めたことだろう。

更地になった自分の土地に、金を工面して仮設住宅よりわずかにましな平屋の小さな家を建てては見ても、たちまち、医療、日常の買い物、郵便局・・・と、生活のインフラは全く整っていない現実と向き合わねばならない。そんな老夫婦一代限りの住居に、その後に子供たちが戻ってくる希望は全くない。飯舘村は早晩無人の地になるのだろうか。飯舘村だけではない、事故原子炉に近い浜通りの広い範囲が、過密日本の中で、ただ一か所、人口空白の砂漠地帯が出現することになるのだろう。

ここからは村長さんとの話ではないが、私は飯舘村の行き帰りに被災地の現状の貴重で興味深い写真をたくさん撮ったので、それでこのブログを飾ることが出来ると楽しみにしていた。ところが、カメラから写真をパソコンに取り込む過程で、愚かな不注意からそれらを一瞬にして全部消去してしまった。意気消沈して、一旦はこの報告のブログを書くのをやめようかと思ったが、気を取り直して、必要なメッセージだけは伝えることにした。

 (ここに菅野村長と私のツーショットがあると想像してください)

行き帰りにあちこち車を止めて写した写真は見るだけで説明が要らないものばかりだが、それを文字でどこまで伝えられるだろうか。

除染作業員の宿舎となるプレハブ建設の簡易ホテルは、最近は余り流行っていない。除染作業が一段落したことを示している。役場や学校や住宅の周囲の点と、それを結ぶ道路沿いの線の除染は一巡したのだろうか。しかし、田んぼや畑の面の除染はほんの一部で残りは放置されて雑草が生い茂っている。

その耕されない農地には膨大な量の放射線レベルの高い除染廃棄物の袋が山積みされている。以前は高さと直径1メートル余りの黒い袋が裸で積み上げられてまれていたが、今はその上から緑色のシートで覆われて整然と並んでいる。しかし、これは根本的解決ではない。応急に地下に埋めたのも掘り起こして、全て中間貯蔵所に集めなければならない。多分無人の地となった双葉町あたりになるか?中間貯蔵所と言うが、最終貯蔵所の目途があるわけではない。永久にそこに放置され、その土地は永遠に遺棄されたままになるだろう。

除染されず、除染しても耕す人が戻ってこない田畑は荒れ放題。そこに今広大な太陽光発電のパネルが敷き詰められ始めている。電力を産むために原発が作られた。それが事故を起こして広大な土地が放射能汚染で荒廃し、そこが再生可能エネルギーの発電場所となった。何という皮肉な循環だろう。原発など造らずに、初めから田んぼに太陽光発電のパネルを敷き詰めればよかったのだ。

人が住まなくなったら、動物が増えた。ネズミに始まり、イノシシ、タヌキ、ハクビシン、アライグマ、猿、etc. そこに大手を振ってハンターたちが集まる。残酷な狂気の無差別殺傷ゲームが野放しだ。

除染は目立つ点と線と僅かな田畑に手を付けたところで打ち切られた。山や林や大部分の農地は除染の対照にはならなかった。放射能レベルは今も高い。獣医さんは山裾の農家の庭先で飼われている犬の皮膚癌がひどいと言う。

風邪の日に屋外で洗濯物を干して、取り入れる前に簡易線量計を近づけると針は赤い危険水準まで振れる言う。風が運んできた汚染物質が付着したのだ。うっかり屋外に洗濯物も干せない。

国が、病院が、保健所が、安全だと言っていることに疑問を持ち、自衛のために線量に高いものは食べない家族がいると、反逆者のように村八分になりその土地に住みづらくなるという話も聞いた。

せめて子供だけでも線量の出ない遠隔の地に疎開させようとすると、行った先で、また帰ってきてから、学校でイジメに合う。

話は尽きないが、東京あたりで考えているより実際ははるかに深刻な状態にある。

(ひとまず終わり)

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