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聖書から見た「サイレンス」
スコセーシ監督と遠藤周作の世界
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私のブログがカトリックの月刊誌「福音と社会」に転載され、反響がとてもよかった、と聞いて気をよくしたわけではない。もともと圧倒的に書き足りなかったので、続編を書こうと思っていたところだった。
ハリウッド映画の「サイレンス」が今の時代に世界で注目されるのは、「キリスト教を信じる立場」から「殉教」をテーマにしているからではなく、「キリスト教を信じない立場」から「棄教」をテーマにしているからだと私は思う。
遠藤周作も私と同じ12歳でカトリックの洗礼を受け、スコセッシ監督もニューヨーク生まれのシチリア系イタリア人として、少年時代にカトリックの司祭を目指したというから、二人ともある面では私と似たような成長過程を共有して今日に至ったのかもしれないが、小説家としてはそれなりの評価を得た半面、信仰をより深く生きようとした精進の印は、その後の彼らの業績からは見出せない。
宗教と神に対する姿勢についても、一般の知識人が人間的知恵と、瞑想と、修行などを通して到達しうる「自然宗教の神」以上のものは彼らの作品の中に登場しない。
人間の自然な営みの埒外に永遠の昔から存在した神の側からの無償の恵みとして与えられ、個人との関係では、自由な同意によってのみ成立するキリスト教の生きた血の通った信仰の躍動感が、彼らの作品からは特に感じられないのはそのためだろう。
たまたま縁あって少年時代にカトリックの洗礼を受けたとしても、その後信仰を深めるために精進を続けたわけでもなく、神学者でも、まして聖人でもない一人の文学者と一人の映画監督が「キリスト教の棄教」をテーマに生み出した作品は、作者の人生観と文化論的主張を反映するものではあっても、キリスト教の伝統的信仰が見落としてきた点を発見したり、より優れた解釈に光を当て得るほどのものではとうていあり得ない。
「サイレンス」の美しい映像はスコセッシ監督の真骨頂であるが、ストーリーのクライマックスの一つ、迫害下の危険な日本に潜入した若く情熱的なイエズス会士ロドリゴ神父と、イエズス会の有徳の指導者としてロドリゴたちの敬愛の的であったが、今は棄教して迫害者の側に立ったフェレイラ元イエズス会士とのやり取りは特に興味深い。
拷問に耐えかねてすでに棄教を誓っているのに、神父が棄教しない限りその苦しみと迫りくる死から解放されない哀れな信者たちを前にして、フェレイラは自らの棄教によって彼らを救うべきでないか、自分はその道を選んで棄教した、とロドリゴに迫る。一見理にかなった説得力のある言葉に聞こえないだろうか。
実は、これは、自らもキリシタンであったが、踏み絵を踏んで殉教を免れ生き延びただけでなく、キリシタンに最も恐れられる迫害者に立場を変えた井上筑後守が、信仰に燃えたキリシタン・バテレンを転ばせるために考え出した実に巧妙な仕組みなのだ。
ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリストは沈黙を破って語りかける。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」。何という誘惑に満ちた言葉だろう。しかし、これは聖書の言葉ではない。作家遠藤周作の文学的創作活動の果実だ。
このブログの読者の皆さん。あなたがロドリゴ神父の立場なら、この「沈黙しないキリスト」の言葉に説得されて、同意して踏み絵を踏むだろうか。実は、この点こそ「沈黙」が出版された当初から多くの人の心に棘のようにひっかかった核心的な部分なのだと思う。そしてまさにこの点が今、スコセッシ監督の「サイレンス」を見たヨーロッパのカトリックのインテリの心に違和感なく溶け込んでいきつつあるように思われる。
私は一編のブログの長さの都合から一旦ここで筆をおくが、次のブログではこの点を聖書の言葉と対比しながら、綿密に検討しようと思う。
(つづく)
だけでいいのではありませんか?
「神学者でも、まして聖人でもない」
のですから。
それとも、谷口司祭は、
プロパガンダ映画であればご満足だったのでしょうか?
自分の国から出たこともないイタリア人たちの東洋への無邪気な憧憬の念、
異国趣味の太鼓持ち、として
ただ片づければいいのではありませんか?
たまたま縁あって少年時代にカトリックの洗礼を受けたとしても、その後信仰を深めるために精進を続けたわけでもなく、神学者でも、まして聖人でもない一人の文学者と一人の映画監督が「キリスト教の棄教」をテーマに生み出した作品は、作者の人生観と文化論的主張を反映するものではあっても、キリスト教の伝統的信仰が見落としてきた点を発見したり、より優れた解釈に光を当て得るほどのものではとうていあり得ない。
そうですね、ただの興行ですね。ぐっと落ち着きましょう。
所詮、相手はハリウッド。儲かってナンボの世界ですから・・・。
しかし、儲かれば何でもいいのはハリウッド側の話で、神父としては、羊を護る牧者の立場から、また福音を宣教する自分の使命にかけて、これはまずいのではないのか、注意を喚起した方がいいのではないか、反論を公表する必要はないか、などの配慮をすることをゆるしていただきたい。
小説を書いて名をあげて生活をする作家が、自分の人生観と文化論を展開するのは自由で、それをとやかく言うのは野暮というものです。しかし、その作品が社会に害を及ぼし、或いは、宗教の立場から言えば、信仰を誤った方に導き、或いは、教会の使命である福音の宣教の意欲を削ぐような影響がある場合は、その問題点に光を当て、注意を喚起するのは、善き牧者の使命であると心得ています。
私は「プロパガンダ映画」というのがどういうジャンルの映画か、ピンときませんが、私はそういうものには興味がありません。信仰はプロパガンダでどうこうなるジャンルのものでは元々ありませんから。
「サイレンス」の内蔵する問題が、単なる「東洋への無邪気な憧憬の念で片付けられる」ようなものならいいのですが、私にはどうもそうは思えません。
困るのは、「サイレンス」を見て、或いは遠藤周作の「沈黙」を読んで、普段から信仰的にモヤモヤ、グラグラしていた人が、鬼の首を取ったかのように、「そうだ、これだ!これこそ従来のキリスト教が見落としてきた重要な問題点であり、陳腐な信仰解釈を凌駕する偉大な指摘だ!」と言って持て囃す風潮に、「ちょっと待った!そこには危ない毒が含まれているよ、それに食いついたら死ぬよ!」という注意を促すことの必要性を感じてはいけないでしょうか。
私は善良でナイーブなイタリア人の自称インテリにはそのような注意を与えることを怠っていません。これからもそうするのはローマに居る数少ない日本人神父として、自分の良心に従ってそれを続けたいと思っています。
悪人正機説で有名ですね。
ところが、親鸞は悪いことをあえてするようなことはいけないとも話していたそうです。
初めて読んだときは矛盾するように感じたのですが、阿弥陀仏に救われるのは間違いないにしても、悪事を働くことはやはり悪いということのようで、今は納得しています。ある意味、政教分離(道徳と信条のほうがぴったりかも)みたいなことです。もちろん、親鸞が近代民主主義のようなことを考えていたとは思いませんけれども。
紹介されている本を薦められて読んだことがあります。
政府からの自由という意味では。思想信条は自由で、何を書こと自由でしょう。
でも、宗教・宗派にとっては、筋を通すことは大切だと思います。
特に、唱道している人がふらふらしていては困ります。
ただ、板挟みになったときにどうするか、というのは難題です。
カトリックには許しの秘蹟いうのがあるそうですね。小説に描かれた神父も許されるのでしょうか。悪いのは悪いとしても親鸞的には救われそうな気がします。
人質事件でどうするかみたいなのと似たところがあります。
安倍内閣になる前は、人質を何としても救おうとしていたように思います。安倍内閣なった後、見殺しか?、みたいな事件がありました。
この頃では、国有地の払い下げで問題を起こしました。正しくは役人は反対すべきでした。しかし、クビか左遷を覚悟しなければならなかったのか、言うがままになりました。
あの役人たちも許されるんだみたいな小説も書けますが、どうなんだろうかと思います。
もちろん、何もかも均して正と悪の二値しかないというのはおかしいですが、やはり、あるべき姿をしっかり立てて置かないといけないように思います。
神父の聖書のお話が楽しみです。