:〔続〕ウサギの日記

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★ 聖書から見た「サイレンス」その―(5)

2017-04-21 18:48:55 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」その―(5)

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村娘役 小松菜奈

私は「サイレンス」を理解するために「自然宗教」について書いた。要約すると、「自然宗教」とは人間が先で神が後、人間が起点で神は人間が自然の偉大な力を前にして人間の想像力の産物として自然の中に射出したものだ。デカルトのコギト(我思うゆえに我あり)の世界だ。神をどのように描くべきかは、太古から人間が模索し形を整えてきた。その神自身に自我はなく、神が自分から祭ごとはこうあるべしと注文を付けてくる気配もなかった。だから、世の中に「自然宗教」しか存在しなければ、宗教問題は既に解決されているはずだった。

問題は、「自然宗教」の他に全く別種の宗教があった場合だ。自然宗教の世界では、醒めた理性が-大きな声では言えないが-神など本当は存在しない、みんな人間が考えたことだ、と内心思っていたら、突然、予期しない方角から、「神」ご本人が「私は居る」と声を発した場合に人間はうろたえる。

それは、宇宙を創造しその中に人間を置いた神は私だ、だから私を礼拝する宗教を作りなさい、と名乗り出た場合に起こる。

面倒なことに、自分たちの宗教はそのようにして出来たと主張する者たちがいる。厳密にはユダヤ教とキリスト教だが、回教やモルモン教などもその類に属すると主張している。

ユデオ・クリスチャンの系譜は宇宙の創造主、全知全能の神を信じる。神は目に見えない霊的な存在だが、「私は在る」という名を語り、理性と自由意思を備えた「生きている一者」で、「神と人間」は、「我と汝」の関係で歴史を通じて対話と意思の疎通を行ってきたと主張する。

人間から発する宗教か、神から発する宗教かでは同じ「宗教」でもベクトルの方向が正反対だ。前者を「自然宗教」と呼んできたが、後者は何と呼ぶべきか。自然を創造した神がこの自然界を超えた次元に実在ることから、仮に「超自然宗教」としようか。

これだけ違うと、世界各地の自然宗教の連合体、宗教村にそのまま素直に加入できるわけがない。ユダヤ教はもともと一民族一宗教の殻に閉じ籠っていたからまだ問題は少なかったが、キリスト教の神は「私が全人類を無から創造したまことの神だ。人間の手で作られた自然宗教の神々を捨てて、回心して私を信じなさい」と言って土足で踏み込んでくるから始末が悪い。当然、摩擦・衝突は避けられない。既存の自然宗教が地上の政治権力と手を結ぶと、そこに迫害と殉教の図式が生まれることは避けられない。

現に、ヤーヴェの神を信じるユダヤ民族は、「自然宗教」を信じる周りの国々から迫害され、さんざんな目に遭ってきた歴史がある。2000年前のユダヤ教は、ギリシャ・ローマの12神を信じる強力な自然宗教国家-ローマ帝国-に従属し、なんとかインカルチュレート(土着化)して、やっと束の間の微妙な安逸を見出していたのに、身内からキリストが現れると、まず帝国の手先に成り下がっていたユダヤ教指導者との間で、次いでローマ帝国本体との間で、他の「自然宗教」と融和できない異分子として叩かれ、激しい迫害と殉教の血なまぐさい状況に突入した。当然ながら教祖イエスが最初に十字架刑の血祭りにあげられ、あとを追って弟子たちも皆殉教した。

この摩擦を回避するためには、遠藤の小説「沈黙」の流儀で行けば、とりあえず転ぶこと。ころんで宣教などやめておとなしく恭順するほかはないはずだった。

ところが、キリストの死後300年間のローマ帝国ではそうはならなかった。迫害をすればするほど、殉教者は増える一方だが、信者の数は減るどころか帝国の最下層の貧しい人々の間で燎原の火のごとく広まり、手が付けられない状態になっていった。このままでは、キリスト教徒は皇帝を神として崇まず、税収は激減し、社会の土台は流動化して、帝国の崩壊さえ恐れられる状態になっていった。そんな時、為政者が考えることはいつも同じだ。力で抹殺できない者は、取り込んで、懐柔して、骨抜きにすればいい。

自分の意に沿わない女は殺してしまえ、から一転して、今までの側女たちを全部退けてお前一人だけを寵愛するから、俺に靡け、金銀宝石も宮殿も皆お前にくれてやる、と口説いて籠絡し、まんまと自分の女にしたのが、4世紀初頭のローマ帝国とキリスト教会の関係だった。

それまでの神々の神殿は打ち壊し、その上に神殿の石材を再利用して教会を建て、神々の像の代わりに十字架を置く。異教の神官たちは退け、キリスト教の司祭に元老院の盛装を纏わせ、宮殿に住まわせた。異教の神々を信じていた大衆は、「寄らば大樹の陰」とばかりに、回心もせず聖書の神も理解しないまま、昨日まで自然宗教を拝んでいた同じメンタリティーのまま続々と洗礼を受けて教会をいっぱいにした。聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」(マタイ6:24)とあるのに、全くお構いなしだ。キリスト教は完全に「超自然宗教」のプライドを捨てて、地上の皇帝の情婦となって「自然宗教」の世界に身を沈めた。これが遠藤の「沈黙」が描いたのとは全く違ったインカルチュレーション(土着化)のパターンだ。

違いは、日本の場合一切の妥協も例外も許さず、日本の島々をローラー作戦で年毎に執拗にキリシタン狩りをしたのに対して、ローマ帝国においては、聖書の本来のキリスト教が修道院の囲いの中や、砂漠の隠遁者の間で命脈を保つことには目をつぶり、稀に個人として聖書のキリスト教を純粋に生きようとして殉教する聖人の出現するのも寛大に許容してきたことであり、また、今や帝国の国教となったキリスト教が、帝国の威信の拡大に資する限り、宣教し拡散していくのをむしろ奨励した点だ。時代は一気に下がって、プロテスタント改革でキリスト教的ヨーロッパ(神聖ローマ帝国の流れを汲む)の半分を失ったカトリックが、失地回復のため新大陸発見後の植民地支配者の船に乗って日本までやってきてキリスト教の宣教を始めたのも、その流れの一環だった。

遠藤の「沈黙」の世界は行きつくところキリシタンの神父が転んで「沈黙」することだった。遠藤の新しい宗教的イデオロギーによれば、キリスト教が進んで自ら自然宗教化し、先輩の自然宗教たちと同じ土俵に並び、ともに手を繋いで協力できる範囲でよき隣人として土着する、これが日本の場合のインカルチュレーション(土着化)の円満な到達点だった。諸宗教対話に熱心になり、世界平和運動、人権問題、環境問題、等々、誰も反対できない現世の共通善に向かって自然宗教の仲良しクラブの一員になり切ることが最善の落としどころとなる。ここまで来るのに日本のキリスト教はどれだけ多くの殉教者の血を流したことだろう。ローマ帝国300年の迫害史の比ではなかったという説もある。しかし、遠藤の「沈黙」のイデオロギーのお陰もあって、カトリックの土着化は1970年代以降ほぼ完成の域に達した。

ではこの厄介な「超自然宗教」の神はどうして今も存在するのか。それは聖書があるからだ。ユダヤ教の聖典の旧約聖書は天地万物の神による創造から、楽園での人祖アダムとエバの創造、彼らの「罪」と失楽園、全人類の遺産となった「死」の運命などが記され、同時に、その「罪」と「死」の奴隷状態からの解放と救済の歴史の始まりが記されている。時が満ちると待望の救世主、メシアが現れるのだが、そこからは新約聖書に引き継がれ、キリスト教の世界になだれ込む。

ユダヤ教は一民族一宗教の閉鎖的宗教で、神の解放と救済の古い約束―「旧約」ーも専ら神の選民であるユダヤ人に向けられたものと理解されていたが、キリストの解釈は、全ての人類、全ての被造物にその救いは及ぶもので、その良いメッセージ「福音」を全世界に行って宣べ伝えよ、と神に命じられているというものであった。結果として、キリスト教は地の果てまで宣教し、改宗を呼び掛けるおせっかいな宗教となった。民族の違い、文化の違い、歴史の違い、風土の違いなどお構いなしだ。

聖書に依拠しようとすれば、遠藤の小説「沈黙」もスコセッシの映画「サイレンス」も成り立たなくなるのだが、逆に聖書の埒外で創作されたイデオロギーとしての面白さがそこにある。

たかが一冊の小説、一編の映画と侮ってはいられない。その影響には甚大なものがある。

結果として、日本のカトリック教会の中枢をなす司教協議会から、福音宣教を担当する部署が消えて、その仕事は各司教区の主体性に委ねられた。しかし、個々の司教区には自立して宣教活動を推進する活力がなく、結局すべて消えてしまった。その間に諸宗教対話や社会問題の委員会は強化され発展を遂げた。これも遠藤流のイデオロギーに沿ったインカルチュレーションの成果だったろう。

―すでに一回分の量を超えてしまったので―

(つづく)

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