ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念/・4 動物の魂(動物力)-2・・

2017-02-24 | 日記
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さらにバパは、他人が苦しんでいることに喜びを感じる人々は動物の魂を持つ人であるとしている。

もし相手を(戦闘中や他の方法で)敗北させた場合、彼(勝利者である、動物魂を持つ人)はより暴力的になるでしょう。

このような行動は、心の喜びだけで関係を築いた夫婦の関係においても時には見られます。

これに関連して、バパはカルマを信じているようですが(注1)、バパはこれらの否定的な結果は(直接的に)関係する人に限定されているだけでなく、彼の子孫にも影響を与えるということを免れ得ないだろうといいます。

両親が誤った行動をすると、自動的にその子供たちが影響を受けます。

この部分の結論としてバパは、人間の全身が動物の魂によって充満され、欺かれているときにこのような問題が起こると言います。

したがって、本来は美しさと完璧なものである彼の体は、動物や他の劣等な魂の道具としての意味しか持たないものなります。

バパの使う専門用語はイスラム、あるいはむしろアラビア語なのですが、ここでもまた、動物魂の概念はイスラム教よりもインドネシア先住民の信念によって影響を受けているという推測に我々は導かれるのです。

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たとえばAl-Jurjaniがアル・ルーフ アル・ハヤワニ(al-ruh al-hayawani)について話すときには、「心臓に由来し、神経を通して体全体に広がる微妙なもの」を意味します。

ほぼ同じ表現を使用しているイブン アル アラビーIbn al-'Arabiは、動物の魂は「心臓(肉体的な心臓)に座っている微妙な蒸気である」と言います。

他のスーフィー達(Sufis)はそれをbahimiとかshahwaniと呼んでいます。(注4

スーフィーにとって、動物の魂はすべての人の中に常に存在する可能性となります。

彼らによると、それ(動物の魂)は神と人の間にあるすべてのベール(注3)の中で最大のものになります。

それ(動物の魂)はammarah bi al_su(注2)の可能性を秘めています。

しかし動物の魂が働くか働かないかということについては、バパが明確に推測しているような「動物の肉を食べるから」、とか、「食べないから」、というような事とは何の関係も持たない事なのです。


先に指摘したように、インドネシアへの世界宗教の浸透と影響がある以前には インドネシアにおいては食べたり飲んだりすることによって魂が増減するであろうと信じられていました。

これは食べ物の中にある「魂の成分」が人によって吸収されるのだと言われていました。

したがって、食べられることが推奨された植物、あるいは動物に由来する特定の食品があり、そうしてまた一部は食べることが禁止されていた。

例えば、鹿は臆病者であると考えられていたので、その肉は禁じられていました。
(訳注:それを食べることで「人に臆病がうつる」とされていた。)
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従って逆にライオンやヘビの肉が推奨されました。
(訳注:それを食べることで「人に勇敢さや強さがうつる」とされていた。)
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動物力はここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク


注1)バパはカルマを信じているようですが、・・・

魂のゆくすえについての考え方は大まかにいって二通りあるようです。

一つは「あの世ではこの世での行いの審判を受け、それに応じた賞罰が与えられる」というもの。

そうやってこの世での行いの清算が行われるとするものです。

もう一つはカルマ(karma)による考え方です。

「人はこの世での行いの結果としてそれぞれ固有のカルマをもち、そのカルマによって次の転生が決まる」というものです。

この考え方ですと、「この世での行いの清算はカルマによって次の人生で行われる」ととらえることもできます。

そうして、この場合のカルマとはその人に固有のもの、その人の魂に固有のものであって、決して両親から引き継がれたものではありません。

そのように考えるのがサンサーラ、解脱(モクシャ)、そうしてカルマの一般的な体系である様です。<--リンク

それに対してバパの言われている「カルマのようなもの」、両親の行動の結果がその子孫に影響を与える、違う場所での主張では「両親の行動がその生まれてくる子供の魂のレベルを決める」とも表明しているのでありますが、それは通常のカルマの考え方には合致しません。

ですのでここでの本文の主張、「バパはカルマを信じているようですが、・・・」というのはカルマというものに対する拡大解釈であると思われます。

ちなみにバパは「全ての人はカルマによるリンカネーションをしている」という主張には同意されていません。(2月3日1974)

しかしながらある条件が成立した場合、「そのような人は転生する」という認識は表明されています。<--リンク

追伸(2018.6月)
訂正します。
バパの基本的な立場、それは「全ての人はリンカネーションしている」でありました。
バパのリンカネーション論(輪廻転生論)<--リンク

それからイスラムにおいては一般的には「生まれてくる赤ちゃんが罪を背負ってくることはない」という認識であります。<--リンク

追伸
「バパのカルマ論」についてはこちらにも記事があります。<--リンク

注2)ammarah bi al_su
コーランに記述されているナフス・アマラnafs ammarahの正式(?)な呼び方。

it is named "the soul that enjoins evil" (al-nafs al-ammara bi al-su')…

それは「悪を命ずる魂」(al-nafs al-ammara bi al-su ')

そして上記本文からすれば、スーフィーにとっては「動物魂」がナフス・アマラnafs ammarahに対応するもの、、、という認識の様です。

ちなみにバパは「動物力」に対してはナフス スフィア(nafsu supiah)を対応させています。

そうしてバパにとってはナフス・アマラnafsu ammarahに対応するものは「物質力」なのでありました。

注3)ベール
人の視線を遮断して中身を隠すもの。

ここでは「神と人との間にあり、それを隔てる邪魔なもの」という意味で使われていると思われます。

注4)shahwani
Lust ( Shahwah )
つまり欲望(あるいは性欲)をあらわすアラビア語がShahwahである模様。

ご参考までに、「ラターイフ」より以下、引用します。<--リンク
『・・・・
特にティルミズィーは、ジャアファル・サーディクの三区分を身体と対応させた。
すなわち、ナフスを腹部、カルブを胸部、ルーフを頭部に対応させた上、これらが順に肉欲(shahwa)、叡智(maʻarifa)、理性の中心となると考えた。』

PS
動物のレベルになると人に近くなる為に通常は「人に魂が考えられるならば、高等動物にも魂があるのではないのか?」と言う事が問題になります。

しかしながらここで言われている「動物魂」という概念はそのような個体性に基づいたひと固まりの存在の事ではなさそうです。

そうではなくて、しいて言うならば「動物の体全体に存在している生命のエッセンス」というイメージの方が近いと思われます。

そうでなければ我々が口にする一片の肉片のなかに上記で言うところの「動物魂」が存在する事は不可能であるからです。

あるいは高等動物にも個体性に基づいた魂というものがあるとするならば、それは「死の瞬間に肉体から分離する」と考えるのが妥当でありましょう。

そうして、そのような霊的存在の魂は決して「包丁でこま切れにされることはない」と思われるのであります。

追伸
以下、ご参考までに。
・愛する犬猫が「極楽往生」できるか否かの大論争勃発<--リンク

キリスト教では動物にも魂を認めている様でもありますが、聖霊は人のみの模様で、従って動物は天国には行けない模様です。

イスラムではコーランに記述がない様ですので、「あるなしを言わず」、と言う事になります。

以上、詳細はこちらを参照ねがいます。<--リンク

PS
植物力、動物力と話が進んできましたが、この二つの力はとにかく「食事に関連したもの」であります。

そうしてバパによりますれば、「我々がこの世の生命を終えて次の世に旅立つ時に、あるいは希望するような天国に向かおうとする時に、いままで世話になってきた4つの諸力とはちゃんとお別れする事が必要ですよ」と言われます。

そして植物力と動物力には食事をする度ごとにお世話になっているのですから、そうしてその度ごとにそれなりの植物性食品、動物性食品をたべるのでありますから、何もしない、ただただ食べるだけというのでは、それはもう「膨大な負債があること」になってしまいます。

そのような負債、植物力や動物力に対しての「借り」があると上手にお別れする事ができません。

そうでありますので「食事の度ごとに口にした食べ物のエッセンスをそれぞれの天国に送り届ける責務が人間にはある」とバパは言われます。

そうしてこのラティハンというものは、そのような状態になる為のラティハンでもあります。


ところでクリスチャンは食事の前にはお祈りをします。

たとえば、「食前の祈り」として<--リンク

『父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。

ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。

私たちの主イエス・キリストによって。アーメン』


あるいはイスラムの作法では<--リンク

ムスリムはあらゆる行動の前には神の御名を唱えて開始しますが、食事もその例外ではありません。

預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう言っています。

“あなた方が食事をする際は、神の御名を唱えなさい。

始めに神の御名を唱え忘れたのであれば、こう言うのです:

「(この食事の)始まりと終わりのどちらも、神の御名のもとに。」”


いずれの教えでも感謝する対象としては超越者であるところの「父」あるいは「神」になります。

しかしながらバパの主張はもっと個別的で具体的なものになっています。

実際に我々が口にする、自分の口の中にある食べ物に対して我々がどのようであるのかがそこでは問われています。

そうしてこのような態度と言うのはキリスト教的、イスラム教的というよりはむしろ仏教的な態度に近い様に思われるのでありました。

PS
ご参考までに。
著名なウラマーにしてスーフィーマスターであるガザーリー(al-Ghazālī)が食事について述べたものです。<--リンク

・ガザーリーにおける二つの欲望<--リンク

PS
これもまた食事に関連したことですが、バパは熱心に断食を勧めました。

そしてイスラムであったバパにしてみれば、断食とはもちろんラマダンの事であります。

しかしながらラマダンに限らず、キリスト教の中にあるレントの断食でもよいとされました。

いずれにせよ食事の量を制限する事で、通常の食事をすることによる植物力、動物力の影響をよりはっきりと認識できるようになる、というのはその目的の一つであった事は明らかな事であります。

つまり、「食事をとる事でそれが結果的にナフスの増加につながっている事を体験する事」が一つのポイントとなりそうです。

しかしながらここでも「食事をとることによる血糖値の増加の効果」というファクターと「食事をとると元気になる。<--植物力、動物力が補充される為である。」という説明方法とは同相的であり、この二つの効果を分離する事は難しい様に思えます。

PS
スシラ ブディ ダルマの世界というのは物質的な形態の向こう側に、あるいはオーバーラップする形で霊的な存在を認め、それと人が物理的に接触することで、人の内部感覚に影響が及ぶ、という世界観になっています。

物質力の場合は「物理的な接触」というのは、「今この地球上に目覚めて存在している」という意識状態を作り出すもの、「人の周りを取り囲んでいる周囲環境からの物理刺激(光、音、匂い、風など)の感覚器官への入力」ということになります。

そうして我々の場合には、意識が目覚めると同時に「内部でのつぶやき」、要するに思考力が働き始めるのです。

植物力、動物力は食品の形に加工された植物性食品、動物性食品が「口の中に入る」という状況が「物理的接触」になります。

さらに消化、吸収器官での食物と我々の体の接触もその中に含めて良いかと思われます。

さて、そうしますと人間力の「物理的な接触」というのはなんでありましょうか?

目で見て、声を聞いて、相手にさわる。

まあそれもそうではありますが、一番直接的な「物理的な接触」は「子作りの行為」であります。

そうしてこの場合はお互いに相手が人間でありますから、相互に内部感覚に影響を与えあう、、、という構造になります。

というわけで、詳細はつぎの「人間力の章」にて、、、。

あるいは、子作りに関連してこんな話もあります。

ご参考までに。

・シェリーン・エルフェキ: ほとんど語られないセックスと官能の物語<--リンク

追伸
物質世界に取り囲まれている場合は、我々は意識を保って、目覚めている事が可能です。

しかしながら、死後の世界においてはそのような物理的な刺激はどこからも入力されません。

さてそうなりますと、意識が存在したとしてもはたして目を覚ましている事が可能なのかどうか?

もしかすると「意識の凍結保存」のような状況におちいるのではないか?などど妄想する事もできます。

さてそういうわけでバパが言うように、「ラティハンでジワを鍛えておかなくてはならない」のであります。


PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク


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