東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜 河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

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河内の民話「維新と武士」

2016-12-24 20:56:16 | 河内國の昔話
こんばんは。
ちょっと更新が滞りがちです。

今日は「世界大冬至祭」ですね。
まぁ、年中行事ですから、難いことなしで。

またまた昔話シリーズです。

「維新と武士」

 千年以上むかし、祭神を奉じて加納の地に住みついた人びとの子孫が、宮座を組織して代々神社を守ってきました。その宮座の一つ、西組の座の長老・源兵衛やんの離れ座敷に、幕末より倉富という武士が住んでおりました。
 嘉永6(1853)年に米使ペリーが浦賀に来てから、開国か攘夷かと日本中が騒然となり、京都では天皇に政権を奪いかえそうと、公家たちが長州や薩摩藩を味方に策動し、京都守護職の会津藩士や新撰組と日夜激しく争いました。その争いの渦中に柳川藩の剣の指南役だった、この倉富さんもいたのです。
 ある春の宵、王政復古を願うための会合で清水の坂を下って来た所で、倉富さんらは新撰組の隊士と争う羽目になりました。その激戦でいっしょにいた無二の親友が命を落としてしまいました。
 友のあだ討ちとばかり、しゃにむに切りつけていたその時の倉富さんは、鬼と化してしまったのでしょう。松の木の陰にかくれている男を見つけると、勢いに乗じ、手を合わせて命ごいをしているその男を斬ってしまいました。その男とは、目の不自由な老僧だったのです。その翌日、倉富さんは悪夢のような昨晩の出来ごと、自分の振る舞いをどんなに悔やんだかしれません。
 やがて明治維新を迎え、日本中がようやく静かになりました。
 倉富さんは、世の中のための主義主張とはいえ日本人同士が殺し合う馬鹿らしさ、武士道の名のもとに縛られてきた自由。何もかもが空しく感じられ、静かに人生を送ろうと知己であった源兵衛宅へ身を寄せたのです。
 その間に、お世話になるお礼にと源兵衛やんの一人息子に、読み書きとともに剣の道と柔(やわら)を教えました。教える方は真剣そのもの、習う方ももとより利発もので熱心な少年です。めきめき腕をあげ、いずれも免許皆伝の腕前となりました。そのような時、倉富さんの目が日に日に悪くなってきたのです。
「これも、盲目の老僧を斬ったむくい」と、かつての所業を深く悔いる毎日でした。
 そんな時でした。盲目となる前に一度故郷の地へ帰りたいとの思いがつのってきたのは…。ある日、旅を案ずる源兵衛やんの止めるのも振り切って、故郷をさして旅立ちました。それっきり、倉富さんの消息は途絶えてしまったということです。源兵衛やんに残されている一巻の巻物のみが、倉富さんの心を今に伝えているように思えます。
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