ジョブカフェちば スタッフブログ!

ブログについてのご意見・ご感想は、メールで jobcafe@ccjc-net.or.jp まで

豆タン、オススメの歴史散策 第6回&メッセージ「醤油の町 銚子が支えた復興 濱口儀兵衛」

2011年09月19日 | ジョブカフェちば
皆さん、以前ご紹介した「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油当主でもある、濱口儀兵衛(雅号 梧陵)さんご存知でしょうか。

安政の大津波に襲われた紀州、今の和歌山 広村にいた儀兵衛は、地震の大きな沖で響く大砲のような音から、まもなく大津波が来ると予測し、また夜の闇の中で逃げ遅れた村人たちを第2波から救うために、刈り取ったばかりの貴重な稲に惜しげもなく火を点して、逃げる場所を知らしめたことで「稲むらの火」として有名になり、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が紹介したことで海外でも知られるようになりました。

さらに、儀兵衛は村の復興と将来の津波への対策として、私産、今のお金に換算すると5億円ともいわれる額を投じて、防波堤を築き、同時に村人たちの雇用創出にも尽くしました。
この防波堤は津波対策の堤防としては世界初の偉業だそうです。

儀兵衛は、梧陵文庫として語り継がれる1万冊もの書物を持っており、その中には貞観の大津波(869年)にことが書いてあり、そこから海で響く大音響から津波を予測したのではと言われています。

この濱口儀兵衛は、銚子の醤油醸造で有名なヤマサ醤油の当主でもありました。

ドラマ「仁」にも、ペニシリンの製造を助けるヤマサ醤油の当主として登場していますね。

江戸時代、紀州 和歌山から千葉の銚子へ多くの人たちが移り住んだそうです。
今でも、苗字が”紀ノ国””有田””垣内””湯浅””西広”と和歌山由来の菜がつく人が銚子には多くいらっしゃいますし、市内の妙福寺には「紀國人移住碑」が残されています。

当時、利根川を通じて江戸という大都市への搬入口として物流の一大拠点となりつつあった、銚子で醤油醸造を始めたのが濱口家でその先見の明が儀兵衛にも継がれたのではないでしょうか。

紀州 広村での堤防作りに、儀兵衛は醤油で稼いだなかから百両(今の3千万円とも言われる)単位で送金し続けたそうですが、数年後に江戸を壊滅状態に陥らせた安政の大地震で、醤油作りも大きな被害を負い、周囲からは送金の中止を迫られました。
儀兵衛はそれでも送金をし続け、しまいにはその行為に共感した人たちが共に醤油作りに取り組み、過去最大の醤油生産高を記録したそうです。

その後、儀兵衛は、初代駅逓頭(えきていのかみ)(郵政大臣に相当)に請われて就任、今でいう郵政民営化に取り組んだり、故郷 和歌山の初代県議会議長にも就きました。

その頃の儀兵衛のことばが残っているそうです。

「志は遠大にして 心は小翼(大きな志と細やかな心)
 一身一戸を斉治して(ひとりひとりの自立で)
 恒産あり 恒心あり(冨や平穏が生まれる)
 之を吾人 自治の本拠とせん(これを我々の自治のより所としよう)」

だれかを当てにするのではなく、大きな目標、志へ向けて細心の気持ちをくだき、自分たちで、民営の力でやり遂げようという、儀兵衛の負けん気、志が感じられるメッセージではないでしょうか。

そしてそんな精神が語り継がれてきた、銚子の町、そんな気がします。


「稲むらの火」についてはこちらもご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/jobcafe-chiba-blog/e/29b7989c609ae6a16cbccff4c9a89330