JN1KWRのブログ

モービルホイップでサテライト移動を楽しんでいます。

30周年回想 (14) 2011年

2011-08-02 18:11:04 | 回想
 今年2月に再免許となり、JN1KWRを開局してから満30年となりました。開局以前のBCL、CB、SWL等を含めると、40年近く電波に親しみながら遊んでいることになります。その間にはアマチュア無線を取り巻く環境も様変わりしました。自分自身も仕事や家庭の環境変化で、途中何度かのブランクはありましたが、よくもこんなに長く続けることができたものです。
 アマチュア無線の交信には不安定・不確実な要素が大きいですが、特に近年はQRPのお手軽移動運用が中心なので尚更です。それだけに、コンディションの変化を上手くつかみ、ぎりぎりの信号を一瞬浮かび上がったところで捕らえたり、QRPの微弱な電波が意外な所まで飛んでいったりして、思いがけない所と交信できた時の喜びは倍増します。「これぞアマチュア無線の醍醐味!」と、貧弱設備で運用する自分に言い聞かせることにしています。
 開局当時は将来QROしてタワーでお化けのようなビームアンテナを回す、なんて夢も持っていましたが、未だに実現していません。今後も可能性は限りなくゼロに近いでしょう。比較的コンパクトな設備でそれなりに楽しんできましたが、それでもこの30年の間にはアマチュア無線へかなりの設備投資をしています。工事設計に載せたリグは延べ14台、これだけでも車が買えてしまうほどです。アンテナや周辺機器、さらには移動の足代、QSLカード、その他諸々の出費まで含めると相当な額に上っているでしょう。道楽にこんなに金をつぎ込んで良いのかと、罪悪感に苛まれることもありますが、十分に楽しんでいますし、アマチュア無線を通じて得た技術や人脈は自分の財産になっています。
 30年を振り返ってみて、アマチュア無線という素晴らしい趣味に出会えて良かったと思っています。移動運用とコンテストを中心に、ほとんどCWに限定した運用をしていますが、幅広い自己訓練が必要で、まだまだ修行は続きます。RTTYや移動でのサテライト等々、今後挑戦してみたいことも色々とあります。今ますますアマチュア無線が面白いです。各局、今後ともお付き合いのほどお願い致します。
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30周年回想 (13) 2010年

2011-07-19 21:20:23 | 回想
 相変わらず移動運用が主体です。埼玉県、栃木県の消滅町移動に始まり、東京23区祭り、WAKU祭りでFT-817が大活躍しました。4月にはモービルホイップによる7MHz運用で23区をくまなく回りましたが、走行中にもパイルを浴びることもしばしば。QRPモービルがこんなに楽しめるものだったとは思いませんでした。これを機会にお手軽志向が強まり、以前ならVCHアンテナを立てていたような場面でも手を抜いてモービルホイップで済まし、1本竿で7MHz以上のバンドに出るときはチューナーもAH-4ではなくT-1を使うことが多くなりました。
 この年の5月頃から7K4CYI局の全バンド移動サービスも追いかけ回すようになりました。移動先から狙う機会も増え、FT-817は1.9MHzから430MHzまで大活躍。クイックQSYにもだんだん慣れてきました。カスカスの信号でぎりぎりの交信をすることも多々あるので耳も鍛えられますが、距離やロケーションによってバンド毎に入感の仕方が違うのが面白く、QSY時はわくわくします。交信の結果としてAJAが一気に増える楽しみもあります。
 30年目の節目ということで、コンテストも自己記録更新を目指して頑張りました。6m AND DOWNコンテストCP関東2位、全市全郡CAP全国1位で、ともに3年連続の入賞を果たしました。ALL JAコンテストは自己ベストを更新しながら4年連続の入賞はならずCAP6位で圏外に。千葉コンテストは前年に続いて乗り込み(流山市)で参加し、県内電信QRPで連覇。QRPながら県内電信部門の優勝スコアも上回ることができたのは嬉しかったです。Let’s A1コンテストは和光市に移動しQRP部門で2位入賞。FDは墨田ウェーブ無線クラブのメンバーとして参加しました。参加人数も少なく2波部門での参加だったので、体に優しいコンテストとなりました。
 アワード関係でも大きな進展がありました。それまで考えもしなかったWACA、WAGAも、調べてみると結構残り少なくなっていることに気付きました。ブログにWanted Listを公表したところ、サービスに出向いていただく方が続出し、WACA、WAGAともに年内に王手が掛かりました。大変有り難いことです。
 ローバンド勉強会、ハムフェアでのアイボールや飲み会、墨田ウェーブ無線クラブの行事、IOTAミーティング、A1クラブさいたま忘年会、静岡CW移動グループの熱海忘年会等々、各分野でご活躍の凄いOMとお会いする機会も多く、いろいろと刺激を受けました。また、JARLのモールス電信技能認定のボランティア試験員として、受験者2名にて試験を実施。CWの普及にも微力ながら一役買うことができました。
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30周年回想 (12) 2009年

2011-07-06 07:43:18 | 回想
 前の年の秋頃から、JI1RGFという局が東京の多摩地区を中心にアクティブに移動運用されているのが気になっていました。ブログを拝見すると私と同じくFT-817をお使いで、重たいリュックを背負って竿を2本抱えて徒歩移動であちこち回っているようです。2月に羽村市に移動した際に、RGFさんは福生市に移動されていたので、次の昭島市に向かう途中に寄ってみました。初めてのアイボールから4ヶ月経った6月某日に、今度は居酒屋で一席設けました。話題の中心はもちろんローバンド移動運用。これが「ローバンド勉強会」の始まりでした。第2回からブログで呼びかけてみたところ、思いがけず多数の参加がありました。交流の輪がどんどん広がり、各局と親睦を深めることができ、また各分野の達人から沢山の刺激を受けました。
 自身の移動運用では相変わらずAH-4によるLW、7MHzはVCHアンテナを多用していましたが、FT-817購入以来これまで出たことのなかった144、430MHzにも、千葉コンテストからモービルホイップでQRVしました。これを機会に移動でのコンテスト参加も少しずつ増えていきました。その他機材の面では5月の茨城移動からパドルをこれまでのMK-706からマイクロスイッチミニパドルに替えました。当初はミスも多かったですがすぐに慣れて、それ以降私のメインキーになりました。MK-706は自宅用に戻しました。
 コンテストにも少しずつ力を入れるようになり、自己記録更新が続きました。ALL JAコンテストはCAP全国3位で3年連続の入賞。6m AND DOWNコンテストはCP関東3位で2年連続の入賞。全市全郡は初の500交信超えでCAP全国2位。フィールドデーコンテストは前年に続き墨田ウェーブ無線クラブJN1ZUA/1で参加。悪天候の中XMAで全国4位入賞。ローカルコンテストでは東京コンテストで都内電信マルチバンド2位となり、何と20年ぶりの入賞です。千葉コンテストではFT-817が1.9MHzから430MHzまで大活躍。現地乗り込み初体験で県内電信QRP1位となりました。
 移動運用でアクティビティを上げた結果、アワード関係もどんどん集まりました。AJAも6000ポイントで初申請しました。この年のもう一つの大きな出来事がDXCCメンバー入り(CW 103)でした。1981年8月DJ1TXとの交信から28年がかり。何事も長く続けてみるものですね。
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30周年回想 (11) 2008年

2011-06-21 09:15:44 | 回想
 この頃になるとブログで書いている通りなのですが、数年前の事って意外と忘れちゃっているもんです。自分のおさらいの意味もありますし、途中で止めちゃうのも何なので、とりあえず30周年まで振り返っておきます。
 前年12月に墨田ウェーブアマチュア無線クラブに入会しました。ローカルのJK1HWQ局から度々お誘いを受けていましたが、クラブ局でフィールドデーコンテストに参加してみたいと思ったことが決め手になりました。早速お正月の「隅田川七福神アワード」からクラブの活動に参加することになりました。
 普段の活動の中心は引き続きFT-817によるQRPの移動運用です。仕事に絡めて移動運用のアクティビティが上がり、移動地のリクエストを頂くほどになりました。ローバンド中心でしたが、初夏にはハイバンドにも挑戦し、楽しみが増えました。この頃は釣竿LWにAH-4、7MHzのみの場合はVCHアンテナを多用していました。運用地は仕事で回るエリア内がほとんどで、大きく寄り道することは少なかったです。少しずつですがモービル運用も始めました。
 コンテストではALL JAコンテストCAP全国2位、6m AND DOWNコンテストCP 関東3位、全市全郡コンテストCAP全国2位、KCJコンテスト マルチバンド 東京都1位と、少しずつ力を付けてきました。そして墨田ウェーブ無線クラブJN1ZUA/1で参加したフィールドデーコンテストでは、総勢13名の強力なチームの一員として参加でき、XMA2位、地域クラブ対抗1位という素晴らしい結果を出すことができました。
 地元の仲間と開設した「いたばし花火大会50周年記念局8N150IH」の運用にも参加し、7月から8月初めまで各バンドでサービス。記念局のパイルの凄さを初体験しました。
 各種クラブの行事やハムフェア等でアイボールの機会も増え、新たな出会いもありました。各局からいろいろと刺激を受け、充実したハムライフを送ることができました。
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30周年回想 (10) 2007年

2011-06-07 22:59:32 | 回想
 何と言ってもこの年の最大の出来事は、FT-817を仕事のお伴に持ち出して移動運用を始めたことでした。3月7日、清瀬市の金山緑地公園の駐車場。モービルホイップでの7MHz運用でした。続いて4月の瑞穂町六道山公園もモビホ。そして5月の東大和市狭山緑地では10m竿にAH-4という、その後のメインのアンテナシステムを使い始めました。初めは月1回程度と控えめだった移動運用も、次第に頻度が増えてきました。前年は呼びに徹していましたが、移動をするようになってからは180度方向転換して、CQを出しまくるようになりました。メモリーキーヤーも必要になりGHDのGK509Aを購入。秋頃からは状況に応じてVCHアンテナも使い始め、性能の良さを実感することができました。そして11月には清瀬市でAH-4に30数mのワイヤーで1.9MHzに初QRV。それまで敷居が高いと思っていた1.9MHzにこんなに簡単に出られるとは。しかもQRPなのに沢山のコールをいただき驚きました。こうなると移動運用が病み付きになります。
 コンテストもそれなりに上位を目指して参加してみました。ALL JAコンテストにCAPで参加。圏外だった前年よりスコアを落としながら、強豪が他部門に流れたため、まさかの全国第1位。立派な楯を頂戴しました。フィールドデーコンテストは自宅から参加。局種係数1ながら何とCP全国第2位。交信数・マルチとも1位の局を上回りました。棚ぼた式の入賞でしたが、これに味を占めてその後コンテストに力を入れるようになりました。
 144MHzの交信数が多かったのもこの年の特徴です。数か月間にわたり7L4CLS局に和文のお相手をしていただいたり、この頃行われていたA1クラブの144MHzOAMでも、JA1HMK局のピンチヒッターとしてキー局を何度か務めさせていただきました。しかし移動運用に興味が移って行くと、普段夜間に自宅からオンエアすることはだんだん少なくなっていきました。
 そう言えばブログを開設したのもこの年でした。それから4年、よく続いているものです hi。これをやっていたお陰で、いろいろな方と交流できるようになり、アマチュア無線の楽しみも広がりました。
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30周年回想 (9) 2006年

2011-05-25 08:39:37 | 回想
 2006年になりました。2004年のNYPを最後に再びQRTしていましたが、2年ぶりの再開は1月9日のオール埼玉コンテスト。30分ほどの参加でたった7交信。隅田川七福神アワードにも挑戦。一歩及ばずアワードの完成はなりませんでしたが、復活へのきっかけとなりました。2月9日には再免許を迎えJN1KWRも第6期に突入。仕事も軌道に乗り、娘もすくすくと育ち、多少精神的にも余裕ができてきました。今度こそアマチュア無線を楽しむことができそうです。
 本格的な活動再開のため早速設備面の見直しも図り、TS-680Sに代わってリグの更新を検討していました。部屋のスペースの問題でシャックは極力コンパクトにまとめる必要がありますが、一方でいろいろなバンドに出たいという贅沢な要求もあります。1.9MHzから430MHzまで1台でカバーできるIC-7000が目にとまりました。AH-4を使用したベランダのアンテナシステムにもベストマッチです。50W機のIC-7000Mが技適機種になるのを待って購入しました。再免許を迎えてから早速変更届けを出しました。移動運用をしてみたいとでも考えたのか、数ヶ月後にはFT-817も購入。しかし移動運用の実行には踏み出せず、IC-7000M修理出し(430MHz QRH)の間に代用リグとして使った程度で、それ以降なかなか出番無し。この時点では後にメインリグとなることは想像もできませんでした。
 新しいリグも使い始め、それまでの長いQRTの反動からか、無線をやりたいという気持ちが高まり、アクティビティも次第に高まってきました。ローカルコンテストにも少しずつ参加するようになり、オール神奈川コンテストでは 県外電信個人マルチ第2位となりました。1989年の東京コンテスト都内電信28MHz第2位以来、実に17年ぶりのコンテスト入賞でした。
 結局この2006年の年間交信数は4312(うちフォーン3交信)で、完全復活の年となりました。2001年に入会しながら幽霊会員状態が続いていたA1クラブでも、ちょうどこの年に始まったクラブ内の年間アクティビティランキング「A1AA」で総合1位を頂戴しました。また、今でこそCQ空振りばかりしていますが、この1年間CQは一切出さず、4312交信は全て呼び回りでした。この頃に培った忍耐力はその後のコンテストにも生かされることになります。
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30周年回想 (8) 2001年~2005年

2011-05-10 22:19:30 | 回想
 2001年1月に大きな変化が訪れました。板橋区にマイホームを構え、田無市と合併して西東京市になる直前に保谷市から転出しました。既に再免許手続きは済ませてありましたが、免許日を迎えたところで早速常置場所を変更。結局それまでの第4期の5年間は完全QRT状態で、保谷市での運用実績もゼロでしたが、転居を機にようやくアマチュア無線を再開できることになりました。
 今にして思えば、物件を選ぶ際にもう少しアマチュア無線のことを考慮すれば良かったのですが、この時点ではアパマン時代の延長で細々と運用する程度にしか考えていませんでした。とりあえずベランダにアンテナを設置できそうですし、板橋区内でも比較的高台に位置するので、VUHFにはまずまずのロケーションと言えるかもしれません。
 サガ電子のSD-660という4バンドアンテナ(21・28・50・144MHz)をベランダに設置。開局当時使っていたFT-680は残念ながら動かなくなっていましたが、TS-680S、FT-736MXは5年ぶりの電源投入も問題なく、正常に動作しました。使っているうちにVR類のガリも取れるでしょう。パソコンにハムログをインストールし、QRT中にエクセルで作っておいた過去のログデータを取り込みました。変更の免許状も届き、JARLにも再入会。いよいよ再開です。
 2001年2月23日、再起戦の交信相手は144MHz CW、しかも和文でした。いくつか怪しげな符号もありましたが、5年以上のブランクがあった割には結構覚えているものです。その日は50MHzCWに続いて、珍しいことに430MHzFMでも室内からハンディ機IC-3Sで板橋区内の2局にお声掛け。余程再開が嬉しかったのでしょう。
 QRT中にアマチュア無線界の状況も大きく変わっていました。資格による操作範囲、電力も変わっていましたし、ゲストオペレータなんて制度も。HFの移動運用が盛んに行われ、10MHzが結構賑わっています。運用地のJCC・JCGコードを入れてCQを出し、599 BKだけのショートQSOが多いようです。50MHzも昔CWの交信が行われていた50.070~090あたりに出る局はほとんどなく、SSBバンドでCWに切り替えて運用しているようです。すっかり浦島太郎状態でした。オートアンテナチューナー(AH-4)なる便利なものもあり、早速導入しました。当時はベランダの竿もちょっと短めの6mくらいの物だったので、3.5MHzもコイルを入れていました。
 再開後もCW中心のハムライフは変わりそうもないので、A1クラブ(当時はJARL A1クラブ)に入会。春先になると21MHzCWでDXも楽しめ、ALL JA、東京コンテストにも参加しました。とにかく久し振りに無線ができるのが楽しくて、徐々にアクティビティを上げて行きました。
 しかしそれも長くは続きませんでした。QRT中に続けていた韓国語の勉強も、長年の挑戦の末この年の9月に韓国語能力試験6級(=最上級)に合格し、これからアマチュア無線に打ち込もうと思った矢先でしたが、今度は仕事の方がQRLLに。趣味を楽しむ余裕も次第になくなり、長年通っていた韓国語講座も休学、アマチュア無線のアクティビティも再開から半年ほどで一気に下がってしまいました。しばらくは仕事中心の生活になりました。
 さらにその後仕事や家庭の環境が変わり、アマチュア無線どころではない状況になってきました。いろいろと考えた末に一大決心して、無線従事者として13年間働いた会社を2003年に退職。自営の道を行くことにしました。当然のことながら仕事が軌道に乗るまでは苦労します。そんな矢先の翌2004年には娘が生まれ、アマチュア無線のことは頭から離れていきます。2004年はNYPのみ、2005年は運用ゼロでした。結局第5期の5年間は、再開後の半年を除いてほぼ開店休業状態でした。
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30周年回想 (7) 1996年~2000年

2011-04-26 17:01:10 | 回想
 96年になりQSOパーティにはどうにか参加。2月10日からJN1KWR第4期に入りましたが、再免許を機にアクティビティが上がることもありませんでした。コンテスト入賞とも縁が無くなって久しかったですが、この年には「JARL創立70周年記念表彰」、「東京コンテスト永年参加表彰」で立派な賞状を頂きました。この頃の数少ない記録です。
 97年2月に保谷市(現・西東京市)に転居しましたが、アンテナを設置できる環境ではなく、リグは押し入れの奥にしまい込みました。既にビューローから送られて来るQSLカードも僅か数枚になっていましたが、途切れたところでJARLを退会。厳しい審査で入会したKCJもあっさりと退会してしまいました。数年前からアクティビティは落ちていましたが、ついに本格的な長期QRTに入りました。
 仕事もかなりのQRLになっていましたが、この頃は無線以外の趣味に没頭していました。職場の同僚と始めたビートルズナンバー専門のバンド、数年前から続けていた韓国語の学習、更には韓国の音楽(主にロック、フォーク系)にもハマって行きました。この頃も韓国に旅行した際にアマチュア無線家とのアイボール、放送局の見学など多少無線絡みの出来事もありましたが、既にCDを買い漁ったり、コンサートやライブハウスに行ったりするのが主な目的になっていました。パソコン通信を通じて韓国音楽好きの仲間もでき、ノレバン(カラオケ)でのオフ会にも度々参加。インターネットの時代になると、韓国とメールのやりとりも増えました。
 このように他の趣味に没頭し、アマチュア無線も忘れかけていましたが、2000年の秋頃からだったか、何を思ったかログの電子化に取り組みました。昔のログ帳は既に紛失していたので、受領したQSLを見ながらエクセルに6644件のデータを入力。いよいよアマチュア無線を再開するつもりでしょうか?
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30周年回想 (6) 1991年~1995年

2011-04-12 15:22:06 | 回想
 JN1KWRも第3期に入りました。転職先は年中無休24時間稼働で輪番勤務の職場でした。泊まり勤務も週2回となることが多かったです。この会社にいた十数年間は基本的に日曜日が休みになったことはなく、「週末」の概念も無くなりました。こんな状況なのでコンテストは参加できたとしても、あまり力が入りませんでした。
 リグはローカル局から中古で譲り受けたTS-680Sに変更、FT-736MXも加わり、1.9MHzから1200MHzまで運用できるようになり、QRVバンドも一気に増えました。夜になるとベランダから釣竿を突き出しワイヤーを垂らして1.9MHzにも出始めました。アワードにはそれほど力を入れていませんでしたが、この頃から細々ながらいろいろなバンドに出ていたことでAJAにも蓄積ができました。
 思い切り運用ができない分、アンテナや周辺機器等の自作などを一番楽しんでいたのはこの頃だったかもしれません。50MHzの50Wリニアアンプは自宅用に2SC2879プッシュプル、モービル用に2SC2290シングルで作り、受信用プリアンプも組み込みました。自動車通勤をするようになると、FT-680+リニアアンプで50MHzのモービル運用も始めました。50.240 SSBモービルグループの皆さんにもお世話になり、行事にも何度か参加させていただきました。
 93年になると独学で韓国語の勉強を始めました。BCLをやっていた頃にラジオ韓国(KBS国際放送)で韓国語講座のテキストを送ってもらったこともあり、昔から興味はありました。仕事である担当業務をしていると韓国のラジオ放送が聞こえてくる状況だったこと、メーカーにいた頃に韓国に2回出張したことなどがきっかけとなり、改めてNHKラジオの講座で勉強を始めました。21MHzSSBで覚えたての韓国語でHL(相手局はほとんどが日本語を話せる方でしたが)と交信するようになりました。アマチュア無線ハングル会に入会し、1エリアハングルQSOセミナーにも参加。交信した局とのアイボールも兼ねて、度々韓国にも足を運ぶようになりました。その後94年、95年のハングルQSOセミナーでは初歩編の講師も務めました(アマチュア無線ハングル会はその後98年に解散)。韓国への関心は初めのうちはアマチュア無線に絡んだものでしたが、交流の幅が広がるにつれて興味は他の方面に移りました。仕事のQRLLもあり、アマチュア無線のアクティビティはどんどん低下。94年、95年頃はほぼQRT状態になっていました。

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30周年回想 (5) プロ資格に挑戦(1987年~1989年)

2011-03-29 13:22:41 | 回想
 当時メーカーでオーディオ機器の設計の仕事をしていましたが、ふとしたきっかけで資格試験への挑戦を思いつきました。1通(第1級無線通信士=現在の第1級総合無線通信士)なら趣味の延長上にあるプロ資格でもあり、興味も湧くのではないかと安易に考えました。仕事から帰って机に向かってもリグの電源は入れずに、分厚い問題集に向き合うことになりましたが、DXのコンディションも低下、アパマンハムになって思い切り無線ができない状況になっていたのも幸いしました。
 まず1技(第1級無線技術士=現在の第1級陸上無線技術士)から取りかかりました。1技による1通の工学系科目免除で効率的に取得できるからです。学科については1アマの時と同様に問題集を徹底的に覚えるやり方でした。過去数年の出題状況から問題を絞り込んで、すらすらと解答できるようになるまで、繰り返しノートに書きました。法規はポケットサイズのノートを使い、通勤の電車の中で眺めていました。まずは88年6月期の予備試験に合格。7月の本試験で「法規」、「空中線系及び電波伝搬」、そして問題集から5問にヤマをはって一夜漬けした「無線機器」も2問が見事に的中。残りは部分点の積み重ねでしたが、思いがけず3科目に合格。残った1科目「無線設備管理」も89年1月期に受験し、全科目合格となりました。ちょうど22年前の自分の誕生日である89年3月29日付けで、初めてのプロ資格、第1級無線技術士の従事者免許を手にしました。
 1技に残り1科目となったところで、1通の「国内法規」、「国際法規」も並行して勉強を始めていました。「英語」は辞書持ち込み可なのでぶっつけ本番、「地理」は試験の数日前から海岸局の地名を覚えた程度でしたが、89年3月期で科目合格。1技による工学系科目の免除で、残るは電気通信術のみとなりました。
 さて、最後は最大の難関の電気通信術です。その昔は人間業とは思えない欧文毎分125字だったそうですが、既に毎分100字に緩和され、エレキーも持ち込み可になっていました。和文は毎分75字、欧文は普通語の他に毎分80字の暗語というのがあります。試験時間は送信5分間・受信5分間です。当時の1アマの電気通信術は欧文毎分60字、和文50字の速度。実際のQSOではもう少し速度が上がっていましたが、さらにレベルアップしなければなりません。
 受信練習は実際の速いQSOを1字1字全て筆記することから始めました。速度が上がると、頭で受信できていても短い符号が続くと手が追いつかなくなるので、数文字遅れて筆記する練習が必要です。受信に関しては脱字は誤字より減点が少ないので、取れない符号は諦めてすぐ次の符号に集中するようにしました。プロの電気通信術の試験ではアマチュア無線では馴染みのない電報形式も覚える必要があります。仕上げの段階では駒込の電波振興会で買ってきた練習用のカセットテープを使い、受信用紙に記入する練習もしました。
 送信でも5分間ミスなしというのは至難の業です。多少未送信になっても構わないので、無理に速度を上げず確実に打つようにし、間違っても慌てず訂正する練習をしました。QSOでは主に縦振電鍵を使っていましたが、流石に1通の速度で5分間打つ自信はありませんので、試験では最初からエレキーを使用することにしました。パドルはそれまで愛用していたダブルレバーのハイモンドMK-706から、シングルレバーのMK-701に替えました。その時はシングルレバーの方が何となくミスキーイングが少なくなるような気がしたからです。電話による送受信の試験もありました。通話表(「A:Alfa」「朝日のア」ってやつです)によるものです。当時はSSBのQSOも多少はやっていたので、特に試験のための練習の必要はありませんでしたが、今ではすっかり忘れています(hi)。
 電話級、電信級、1アマ、1技は蒲田の日本工学院専門学校が試験会場でしたが、1通は池袋の東京電子専門学校で受験しました。学科の試験の雰囲気には慣れていましたが、電気通信術の試験の緊張感は半端ではなく、無我夢中のうちに試験は終わってしまいました。こんな試験は金輪際ご免だと思いましたが、今から思えば貴重な経験ができたということでしょう。運良く89年9月度に一発で電気通信術に合格し、89年11月に第1級無線通信士の免許を取得しました。
 趣味の延長なら長続きするだろうという安易な考えから受験を思い立ちましたが、試験科目も多く約2年半にわたる長い取り組みになりました。大学には推薦で転がり込んでしまい、苦しい受験勉強を経験していなかったので、生涯で一番勉強したのが無線のプロ資格ということになります(hi)。翌年転職して早速無線技術士の資格を生かせる仕事に就くこともでき、さらにその職場で得た技術や資格は、自営業となった現在の飯の種になっています。
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