「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

聖霊を汚す罪について 3

2013-02-08 | 感想 2

宗教詐欺・マインドコントロールに荷担する信者の例 幸福の観測所

 

 

ガンブロさんは、仏典からの引用を次のように記しています。

 

「人は生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬り割くのである。そしるべき人を誉め、また誉めるべき人をそしる者 彼らは口によって禍をかさね、その禍ゆえに幸せを受けることができない。
賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その不運は僅かなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運(罪)はまことに重いのである。
悪口を言い、また悪意を起こして聖者をそしる者は巨大な年数のあいだ地獄におもむく」悪魔との対話 岩波文庫 中村 元

 

たまたま同書が手元にあったので確認してみると、ガンブロさんの引用とは、改行その他多少の違いがあるようです。(その部分には下線をつけておきました)

 

「人は生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚人は悪口を言って、その斧によって自分自身を斬り割くのである。
毀るべき人を誉め、また誉めるべき人を毀る者――かれは口によって禍をかさね、その禍いのゆえに幸せを受けることができない。
賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その不運は僅かなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運(罪)はまことに重いのである。
悪口を言い、また悪意を起こして聖者を毀る者は、
十万と三十六のニラッブダの〔巨大な年数のあいだ〕また五つのアップダの〔巨大な年数のあいだ〕地獄におもむく。」
(中村元訳『悪魔との対話―サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波文庫、1986年、p.111)
*下線は筆者による。

 

この違いは、版の違いのためなのでしょうか。それとも、ガンブロさんなりに読者のために便宜はかり改変したためでしょうか。だとしたら、「毀る」を「そしる」とするならまだしも、「かれは口によって禍をかさね~」を「彼らは口によって禍をかさね」にしたのはいかがなものかと思います。

この説法がなされた流れを見ると、まず「第Ⅵ篇梵天に関する集成第一章第九節」において、病んでいる修行僧コーカーリカに対して、トゥドゥ梵天は「サーリプッタとモッガラーナに対して清らかな信仰を起こせ」と注意したあとに、上に引用した教えを説いています。

そしてその次の第一〇節において、コーカーリカは尊師を訪ね、「サーリプッタとモッガラーナは、悪い欲望を起こしています。悪い欲望に支配されています」と中傷します。尊師から注意されても、「わたしは師を信じてお頼りしていますが、サーリプッタとモッガラーナとは、悪い欲望を起こしています。悪い欲望に支配されています」と繰り返し中傷します。そしてしまいには体中に腫物ができて死に、地獄に堕ちます。ここで師は、先の教え……トゥドゥ梵天が説いた教え……を繰り返します。

こうしてみると、この教えはコーカーリカについて語ったものであろうし、それならば「かれは口によって禍をかさね~」とならねばならぬのであり、「彼らは口によって禍をかさね」と複数になるのはおかしいことになります。

ガンブロさんが、第何版から引用したのかが定かでないのではっきりとは言えませんが、もしも、うっかりミスで「かれは」を「彼らは」にしてしまったのであれば、早く修正しておいた方がよいと思います。このままでは、「かれは」を「彼らは」に改変することによって、その意味合いを「コーカーリカは」から「アンチらは」に変えて、、読者を誘導しようとしているように見えますから。

またガンブロさんの記事を読むと、仏陀である大川隆法を中傷すると地獄に堕ちるかのように解釈されますが、仏典の流れを見ると、たとえ仏陀を信じていても、サーリプッタやモッガラーナのような聖者をそしるならば地獄に堕ちるということのようあり、大分ニュアンスは違ってくるようです。

さらには、「毀(そし)るべき人を誉め、また誉めるべき人を毀(そし)る者――かれは口によって禍をかさね、その禍いのゆえに幸せを受けることができない」という一文も重要です。これは、仏陀をそしる者は禍をかさねるという一方で、仏陀でない者を仏陀であるとする者も禍をかさねるとも解釈できそうだからです。

信者さんが大川隆法を仏陀であると信じるのは自由です。けれども、もしも大川隆法が仏陀でなかったときには、「そしるべき人を誉め」たということで、「口によって禍をかさね、その禍いのゆえに幸せを受けることができな」くなる可能性があることも考えてみてほしく思います。

最後に参考までに述べると、コーカーリカについては、『ブッダのことば』(中村元訳 岩波文庫)にも載っています。「第三 大いなる章」の一〇です。解説部分では、教団内でのサーリプッタらの立場、コーカーリカが彼らを批判した理由などについて触れられています。また、「毀るべき人を誉め、また誉めるべき人を毀る」は、毀るべきことと、誉むべきことこをはっきり区別し、いい加減なことは言うべきでないと戒めているとし、「立派な聖者」とは、仏、縁覚、声聞とをいうとしています。他にもいろいろと興味深いことが書かれています。

ガンブロさんや、幸福の観測所さんの記事のおかげで、ひさしぶりに聖書や仏典をひも解く機会を得ました。なんだか偉そうなことを言うようですが、聖書も、仏典も、自分の直感で判断しながら読むこともできるでしょうが、宗教者や研究者らの解説などを読み、本来の意味に忠実に読み解こうとするならばその奥深さに驚かされるものです。聖書や仏典を読むときは、自分流に読むばかりでなく、先人たちの研究成果に敬意を払い、謙虚に学ぶ姿勢も大切にしたいものです。

 

 

*追記 2012年2月9日

やすらぎのガンブロさんが新しい記事を書いておられました。

 

聖霊を汚す罪 その2 - やすらぎのガンブロ

 

丁寧な文章からは温厚な人柄が伝わってくるようです。「聖霊を汚す罪」を書いたのに脅しの意図はなかったこと、一部修正をしたとのこと、了解しました。わたしはまだまだ至らぬところは多いですし、もし何かお気づきの点があれば遠慮なくご指摘ください。

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。