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日本の核武装を可能にするのは何か<1>

2016-10-18 15:08:36 | 防衛

日本の核武装を可能にするのは何か

月刊正論 2015年12月号 東谷暁(ジャーナリスト)

中国の報復核戦略取り下げの衝撃~変動する国際核情勢

ここにきて頻繁に、世界の核戦略の構図が変わるのではないかと思われる事件が起っている。まず、2015年7月14日、イランの核開発をめぐる協議が、イランとアメリカを中心とする先進国との間で決着した。

 これで中東における核問題は解決したかのように妥結を讃える報道が多かったが、もちろんそれほど甘い話ではない。イランはこれから十年余の間、核開発ができなくなることは決まったが、それ以後はどうなるか分からない。

 アメリカでも民主党のヒラリー・クリントンは妥結を支持したが、共和党の政治家たちの多くは最悪の結末だと激しく非難した。中東における唯一の核保有国とされているイスラエルのネタニヤフ首相も怒りを露わにしている。批判する側が指摘するのは「この妥結では単にイランが核保有するのを先延ばししただけだ」という点である。


事実、この妥結案が浮上したとき、アメリカ核戦略の重鎮ヘンリー・キッシンジャーが「これでイランは核保有へ向かうだろう」と証言していた。これまでの例を見ても、ある程度の経済力があれば、核保有を強く決意している国家を、国際社会が最終的にコントロールすることはかなり難しい。

2015年7月14日、米ホワイトハウスで、イラン核協議の最終合意を受けて声明を発表するオバマ大統領(右)。左はバイデン副大統領(AP=共同)

イラン核協議の評価とはうらはらに、実は、この協議妥結は将来の、中東における(それどころか世界的な)核拡散の始まりであるという観察は少なくないのである。

 もうひとつの注目すべき動向は、ほかでもない、中国の核戦略が変わったのではないかと思われる兆候があることだ。これも2015年5月28日、外交誌ディプロマット電子版にカーネギー財団核政策プログラムに参加しているトン・ツァオの「戦略的警告と中国の核戦略態勢」が、同財団のサイトから転載された。


 この論文は二日前の5月26日に発表された中国の国防白書である『中国の軍事戦略』が、核戦略の変更を示唆していると指摘して注目された。同論文は「中国はこの白書のなかで核兵器について目的は二つだけだと再確認している。すなわち、『戦略的抑止と核による報復』である」と述べつつも、「戦略的な早期警戒戦略」という文言に注意を喚起して中国の核戦略には変化がみられると論じている。


 いったい、これのどこが注目に値したのだろうか。実は、中国の核戦略は専門家が「神秘的」というほど不自然なところがあった。詳しいことは他論文にお任せするが、一九六四年にロプ・ノールでの原爆実験を成功させ、六七年には水爆実験も成功させて以来、常に、自分たちの核兵器は「帝国主義者が核攻撃をしてきたとき報復に使われる」と主張し、推定される核弾頭数も二百数十を超えなかった。


 こうした「報復核戦略」は中位国の核戦略に見られるもので、二〇一三年四月に発表した『中国の武装力の多様運用』で、それまで主張してきた報復核戦略を削除したときには世界に大きな衝撃を与えた。これこそ中国の核戦略が、冷戦期の大国型に転換した証左とする見解も多かった。ところが、またしても今年になって、報復核に徹する方針を打ち出してみせたのである。


 前出のトン・ツァオは「戦略的な早期警戒能力」という文言が組み込まれたことから、敵国の攻撃態勢の早期察知、反撃までの時間短縮、敵ミサイル発射に即時報復などの戦略変更があるとしている。これまで中国は報復までの時間についてルーズであり、それは報復核戦略に徹しているからだといわれた。しかし、このルーズさを変えようとするのであれば、戦略の中心になんらかの変化があったことは否定できない。それは南シナ海や尖閣諸島での動向を思い出せば、ますます疑いは濃厚になるのである。

岸も佐藤も…核武装論者だった首相たち

 私はジャーナリストを名乗って何でも書いてきたが、核戦略という分野は専門性が高いので、うかつに手を出せないと思ってきた。膨大なデータや知識にもとづき、ときには高度な数学を含む抽象的な思考が要求され、特に日本では読者の抵抗がきわめて強い。

 
 しかし、そんな私にある市民講座から「核戦略について話してほしい」との依頼がきたのは数年前だった。たしかに核戦略について雑誌で短評は何度かしたことがあったが、それまでこの市民講座で私に与えられるテーマは「グローバル経済と日本」とか「急激に変化する雇用情勢」などであって、軍事について話したことなどなかった。


 いろいろ迷ったが、お調子者の血が騒いであれこれ準備し、全部で二回、合計で四時間の入門講座を考えた。インターネット上に見られるように「オタク」的なミサイルの詳細な評価をやっても仕方がないので、まず国際政治への見方が違うのは世界観が違うからだという話から始めて、核戦略も世界観やその国の置かれた状況で大きく異なると話を進め、いくつかの基本的概念を説明しただけで制限時間いっぱいだった。


 中年以上が多く女性も半分を占める受講者たちは、熱心に耳を傾けてくれたと思う。しかし、最後に「東谷さんは、日本では核について一般のレベルで議論はほとんどされてこなかったと言われましたが、それは違うのではないですか」と言われて面食らった。では、どんな議論がされたのかと聞くと、返ってきたのは「核兵器への反対運動はずっと続いてきたではないですか」という言葉だった。


 どうもおかしいとは思っていたが、「核戦略についての話」とは核兵器反対のことであり、ひょっとすれば私が求められていたのは、核兵器の残虐さを悲憤慷慨しながら延々と語り、核戦争反対を唱えて講座を終えることだったのかもしれない。


 しかし、冷静に考えてみれば、これは実に奇妙なことなのである。本誌の読者のなかにも、「日本は唯一の被爆国だから、核兵器廃絶を唱えるのは当然」という人がいるかもしれない。しかし、たとえば一九八〇年に評論家の清水幾太郎が「核の選択」(『諸君!』同年七月号)で述べたように、唯一の被爆国であればこそ、核戦略について世界の現実をわきまえるべきではないだろうか。


 核について語るのはタブーだといわれてきたが、右の清水論文を批判するさいに福田恆存は専門家にとどまらず核戦略について論じるのは、当時、禁忌でも何でもなかったと指摘している。それどころか、戦後の政治家たちは、公然とは表明しないようにしたが、日本も将来的には核武装するのが当然であると認識していた。


 一九五七年、岸信介首相(当時)は、現行憲法のもとで許される自衛権の行使の範囲内であれば、「自衛のためなら核兵器を持つことは憲法が禁じない」との見解を述べている。一九六二年、すでに政界から引退していたが、隠然たる力をもっていた吉田茂元首相も、日本の核武装オプションは排除されてはならないと公に述べた。

岸信介元首相(昭和61年9月撮影)

 ヨーロッパ外遊のさいに、フランスのド・ゴール大統領に「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄された池田勇人元首相も核武装論者だった。この点について、池田の秘書だった伊藤昌哉の回想は興味深い。一九五八年ころのことである。


 「ある日、池田は、西ドイツの防衛問題にかんする新聞記事を読みながら、いきなり、『日本も核武装しなければならん』と言った。私は大いに驚いた。『広島は世界ではじめて原爆の被害をうけたところです。その地区からの選出議員が核兵器を提唱するなどとは、とんでもないことですよ』と私は答えた」(『池田勇人とその時代』朝日文庫)


 池田が退いたあとを引きついだ佐藤栄作元首相は、一九六四年に中国が核保有を世界に向かって宣言したのをうけて、実際に核保有にむけて動き出している。佐藤がどのように思考し何を追求したかは、黒崎輝氏の『核兵器と日米関係』(有志舎)に詳しい。


「佐藤栄作は中国の最初の原爆実験後、日本も核武装すべきとの考えを米国政府高官に繰り返し示していた。佐藤はナショナリズムに裏打ちされた中国に対する対抗意識から、主権国家として日本が核兵器を持つことは当然と考えていた」


 ちなみに、佐藤元首相時代の核武装論については、この黒崎氏の著作が基本文献とされているが、黒崎氏は他の著作物から明らかなようにれっきとした「反核論者」であることを知っておいたほうがよい。反核であるからこそ、日本の核武装への試みを詳細に調べつくしたのであろう。
 
 

核保有を現実に模索した時代

 佐藤政権は一九六四年十一月から七二年七月まで継続した、日本の憲政史上最長不倒距離の政権だったが、この間、核武装をめぐっては、アメリカとの交渉以外にも多くの注目すべきことが行われている。

 
 まず、一九六三年に国連で核拡散防止条約(NPT)が採択されて七〇年に発効したが、日本は七六年まで批准を引き延ばした。一九六七年には、当時の下田武三外務事務次官が、核保有国だけが核の恩恵を受けるという不平等に反対すると表明して、当時の社会党委員長・成田知巳に激しい批判を受けている。


 これは下田事務次官のナショナリズム的な抵抗だと批判され、また、そのため佐藤政権は下田発言を修正することになったが、最近、朝日新聞が報じたように、日本の批准延期は、対ソ・対中政策を推進していたアメリカの圧力によるものだとの指摘もある。
 


1969年11月、米ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相(左)とニクソン米大統領(共同)
 
 もちろん、アメリカは核兵器を独占していた時期から、ソ連を牽制しつつ核拡散を回避しようとしていたが、日本についても占領時代の「再ビ米国ノ究極ノ脅威」とならないようにするとの「方針」は、この時代も生きていた。むしろ、それを利用して核保有国の特権を公然と指摘した、下田事務次官の深慮遠謀を記憶にとどめるべきだろう。


 また、一九六八年から七〇年までの間に、日本がはたして自力で核武装できるか否かの調査が行われた。『日本の核政策に関する基礎研究』と名づけられたレポートは、この間、内閣調査室から三冊提出された。


 中心となった識者は、物理学者の垣花秀武、国際政治学者の永井陽之助、前田寿、蝋山道雄の四人で、報告書は、原爆を少数製造することは当時のレベルでもすでに可能であり、比較的容易だと指摘している。ただし、それを有効な核戦力にしていくには、制度的な問題が多いとされた。


 さらに、この間、驚くべきことに、外務省は西ドイツと秘密裏に協議をおこなって、中位国家がこれからどのような核武装をすべきか、また、それは可能かを話し合っていた。この事実は、二〇一〇年十月に『NHKスペシャル“核”を求めた日本』のタイトルで放送され、後に『“核”を求めた日本』(光文社)として刊行されたので視聴した、あるいは読んだ人も多いだろう。


 この日独秘密協議は、一九六九年に東京と箱根で、第一回が開催された。このとき日本側の出席者は、国際資料部長の鈴木孝、同調査部長の村田良平、同部分析課長の岡崎久彦などからなっている。記録に残っている日本側の問題意識は次のようなものだった。


 「NPTに署名した後、十年から十五年のうちに条約の義務から免れざるをえない『非常事態』が起こると考えている。インドのような新興国が核武装を決めることや、中国の核保有をアメリカが認めるような取り決めを行なう事態だ」


 日本は独自に核開発ができると述べて共同歩調を促した。これに対して西ドイツ側は「日本と西ドイツの置かれている状況は違いすぎる。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定することができない」と回答している。


 ちなみに、このNHKのドキュメンタリーおよび刊行物も、情緒的な反核のトーンに貫かれているが、日本人が忘れてしまっていた真摯な核との取組みを思い出させてくれた功績は多とすべきだろう。

米中の対日「二重封じ込め」は過去のものにせよ

 佐藤政権が達成した政治的成果に一九七二年の沖縄返還があるが、すでに一九六七年十一月に訪米したとき、佐藤はマクナマラ国防長官との会談において「自分は、日本の安全のため、核を持たないことははっきり決心しているのだから、米国の核の傘の下で安全を確保する」と明言してしまっていた。ニクソン大統領やマクナマラの再三の説得工作に屈してしまったのである。


 しかし、佐藤の秘書だった楠田実の『楠田日記』一九六八年九月十六日には、佐藤が楠田に「いっそ、核武装すべきだと言って辞めてしまおうか」と言ったことが記載されている。まだ、日本の核武装については大きな未練があったのだ。


 しかし、この佐藤の核保有断念はアメリカの核戦略にとっては大きな一歩であった。というのも、一九七一年、キッシンジャー補佐官は中国を秘密裏に訪れて米中国交回復を画策したが、この際、周恩来との秘密会談で事実上、日本には核武装させないことを約束できたからである。


 産経新聞は二〇〇二年八月六日付朝刊に、このときのキッシンジャーと周恩来の極秘会談を掲載した。話は多方面にわたったが、日本の核武装について、まず、キッシンジャーから「米国は対日基本政策として、核武装に反対し、自国防衛のための限定的な再武装を支持し、台湾や朝鮮半島への軍事的拡張に反対している」と切り出している。


 これに対して周恩来が「日本の核武装を望まないというが、米国が日本に核の傘を与え、他国への脅威になっているのはどういうことか」と問う。それに対して再びキッシンジャーが「核の傘は日本に対する核攻撃に備えたもので、米国が(攻撃に出る)日本のために核兵器を使うことは、自国に使うこと以上にありえない」とあっさりと答えた。


 さらに、キッシンジャーは「核の傘に関しては日本との間にその拡張で条約を結ぶ必要はない。核時代には国が他国を防衛するのは条約のためでなく、自国の利益が問われるためなのだ」と述べて、完全にアメリカの核の傘を否定している。


 アメリカは中国が核戦略を拡大していくことを望まなかった。と、同時に、戦後の日本が再びアメリカの脅威になることも望んでいない。そこで中国を封じ込めるために日本には核武装はさせないと確約して、中国の核武装が急速に拡大しないように牽制を試みた。これを「二重封じ込め(ダブル・コンテインメント)」と呼ぶ専門家もいる。このとき日本は中国を封じ込めるための防御壁にされると同時に、中国はアメリカとの交渉によって日本の核武装を制御することができるとの感触を得た。


 この「二重封じ込め」こそが、日本があらゆる選択肢を必要とする戦略において、身動きのできない状況に立たされている元凶といってよい。しかし、もし国家に個別的あるいは集団的自衛権があるのなら、「核の選択」もまた、その国自身の自衛戦略に委ねられるべきであろう。


 ましてやNPT第十条に「異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する」とあることを思い出せば、核保有を国家戦略に繰り入れる権利は当然のこととして存在する。

<2>につづく
 
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