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10年に及ぶ石山合戦が始った。

2017-04-23 20:08:21 | 戦争と平和
織田信長は1569年(永禄11年)に、足利義昭を奉じて京都に入った。

これにより、足利義昭が室町幕府の第15代将軍となるのはほぼ確実になり、織田信長は将軍家の名目で石山本願寺には5000貫の軍資金や京都御所再建のお金を要求した。

http://time-az.com/main/detail/59527

石山本願寺は。親鸞を開祖とする一向宗(浄土真宗)の本山で、8代蓮如によって開かれた。当時の石山本願寺の財力は、有力大名と肩を並べるほどだったといわれ、その石山本願寺の財力に目をつけた信長はお金を要求、そして信長は、されにもうひとつ石山本願寺の場所を移して、石山を引き渡すように、要求を突きつけた。

この石山は、後に豊臣秀吉が大阪城を築いた場所で、貿易、交易の拠点として優れた場所であった。
その場所を引き渡せといわれ、簡単に渡すわけにもいかないので、本願寺側は、5000貫の軍資金には素直に応じ、何とか退去要求はかわそうと試みた。
しかし、いつまた信長から退去の命令がくるかもわからないので、本願寺側はも信長への不信感と敵意が募っていった。

そんな中、織田信長は三好が拠点とする野田砦と福島砦を攻撃した。この野田・福島の砦の対岸にあるのが石山本願寺であった。この砦を攻め落とされれば、信長が次に狙うのは、この石山本願寺と考え、顕如は、「本願寺の危機である!」と三好方を攻撃中の織田軍へ、1570年10月21日(元亀元年09月12日)に攻撃を仕掛けた。

この戦いは信長の優勢で終わるが、その後10年に渡り、石山本願寺と織田信長は争っていくことになった。

1573-10-03---織田信長が、妹の嫁ぎ先である浅井長政の小谷城を攻撃。

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