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比叡山の延暦寺を焼き討ち。

2017-04-19 21:10:52 | 宗教
信長の戦の中でも一番悪名高い比叡山の延暦寺を焼き討ちを1571年10月10日(元亀02年09月12日)に行い、この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。

またこの戦いについて、ルイス・フロイス(Luís Fróis/1532/ - 1597)の書簡にも約1500人が殺されたと記載がある。

http://time-az.com/main/detail/59476

ただし、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。

比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山の領地を横領した事実が指摘されている。1569年(永禄12年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。

1570年08月09日(元亀元年06月28日)に織田信長は姉川の戦いで勝利したが、1570年08月07日(元亀元年06月26日)の野田城・福島城の戦いでは、浅井長政と朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井と朝倉連合軍は比叡山に立てこもり、志賀の陣で比叡山の攻防戦となったが、正親町天皇の調停により和睦した。

当時は、浅井と朝倉連合軍に加え、近江南部と甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津と河内を抑えて再び京奪還を狙っていた。

更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津、河内、近江、伊勢、そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していた。

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