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ピカソの代表作『ゲルニカ』をスペインに返還。

2017-03-20 21:46:03 | アート
スペイン内乱の間の苦しみはスペイン芸術家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso/1881-1973)の代表作で、とてつもない反戦壁画「ゲルニカ(Guernica)」の返還要求があり、40年間の管理人任務の後に、アメリカ合衆国のMoMA(Museum of Modern Art, New Yor/ニューヨーク近代美術館)から米1981年09月10日にスペインへ返還された。

http://time-az.com/main/detail/59106

1937年に、フランシスコ・フランコの承認をもって、ナチス・ドイツは独立者志向のバスク人領域の町ゲルニカ(Guernica)で致命的に新しい空軍をテストした。
3時間の爆撃では、5,000人の住民のうちの3分の1が殺された。

スペインの画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso/1881 - 1973)がスペイン内戦中の1937年に描いた『ゲルニカ』は、ドイツ空軍のコンドル軍団(Legion Condor)によってビスカヤ(Bizkaia)県のゲルニカ(Gernika-Lumo)が受けた都市無差別爆撃Gernikako bonbardaketa(ゲルニカ爆撃/Bombardeo de Guernica/Bombing of Guernica)を主題として、20世紀を象徴する絵画である。

発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。

スペイン内戦中の1937年01月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った。

ピカソはフランスのムージャンにある自宅で、1973年4月8日に死去した。

1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I/1938 - )が国王に就任して、民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった

1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された。1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。

マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた。

1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した。

特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし、バスク自治州は熱心に絵画の展示を希望したが、1981年09月10日にマドリードのプラド美術館(Museo del Prado)別館(El Casón del Buen Retiro/カソン・デル・ブエン・レティーロ)に運び込まれた。

私は、この前にニューヨークで最後に「ゲルニカ」が公開された時、ニューヨークにいた。

1997年以来、バスク人国家主義者はビルバオのグッゲンハイム美術館(Guggenheim Museum in Bilbao)への転送を求めている。

Guernica LumoのGoogle Earthポインター情報
43°19'2.04"N,2°40'44.25"W
または、
43.317233, -2.678958

マドリードのプラド美術館(Museo del Prado)別館(El Casón del Buen Retiro/カソン・デル・ブエン・レティーロ)の緯度、経度
40°24'54.8"N 3°41'21.1"W
または、
4474072 441529 30T

1973-04-08---パブロ・ピカソが死去した。
1937-04-26---ナチス・ドイツの空軍機が、ゲルニカを無差別爆撃した。
1901-06-24---パリで初めて、ピカソの個展がオープン。

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