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関ヶ原の戦いで、徳川家康が勝利した。

2017-07-23 21:42:23 | 戦争と平和
1600年10月21日(慶長05年09月15日)午前8時に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として始まった関ヶ原の戦いで、東軍7万5千人の徳川家康が、石田三成の西軍12万8千人に勝利した。

http://time-az.com/main/detail/5647

戦いは濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れてきたとき、福島正則の部隊が、西軍副将の宇喜多秀家に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られた。

しかし、東軍の黒田長政らは、事前に松尾山に本陣を置いた西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際に、東軍へ寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略していた。

そのため、このまま西軍に味方するか、東軍に寝返るか、決め兼ねていた戦に参加していなかった。

西軍の多くの将が同様に様子見で戦に参加していないで、戦闘していたのは30000程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。

そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋15675の陣に大砲を撃ち掛けた。

「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始した。

それを知ると、調略を受けていた
脇坂安治990
朽木元綱600
小川祐忠2100
赤座直保600
吉川広家3000らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。

徳川勢の調略で、寝返りや、動かない大名が続出する結果となり、西軍は総崩れして、双方合わせて6,000〜8,000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、徳川家康勢の大勝利となったのである。

豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の決戦に決着がついた。
西軍総大将は毛利輝元であり、副将は宇喜多秀家であった。
1600年10月27日(慶長05年09月21日)には、田中吉政隊によって石田三成が捕縛された。
石田三成は、大坂、堺を引き回しにされたうえで、六条河原で斬首された。

関ヶ原の戦いでの武器を見たい人は、大垣城に行くべきである。
大垣城には鎧通しの刀、兜割の刀、騎馬兵と戦う刀など、特殊な刀が揃っている。

当時の百姓は、武将が殺されると、刀、兜、具足を脱がせて持ち帰り、武将の首を持って、恩賞を受けていた。

そのため、関ヶ原の農家には、多くの銘刀が隠されていた。

関ヶ原の戦いの開戦地のGoogle Earthポインター情報
35°21'53.0"N 136°27'35.7"E
または、
35.364711, 136.459903‎

関ヶ原の戦い決戦地のGoogle Earthポインター情報
35°22'12.9"N 136°27'41.2"E
または、
35.370239, 136.461439‎

民俗資料館のGoogle Earthポインター情報
35°22'02.5"N 136°27'50.3"E
または、
35.367350, 136.463975‎

本田忠正の陣のGoogle Earthポインター情報
35°21'39.9"N 136°28'19.0"E
または、
35.361072, 136.471939

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