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大和・五條代官所を襲撃した「天誅組の変」が起こった。

2016-10-17 21:01:52 | 戦争と平和
土佐(高知県)庄屋の生まれだった吉村寅太郎は、武市半平太の教えを受けて土佐勤王党に加わり、1862年(文久2年)には土佐を抜け出して入洛し、尊皇攘夷運動に加わった。

http://time-az.com/main/detail/57299

寺田屋騒動でいったん帰国したが、1863年4(文久03年03月)、再び上洛して尊王攘夷運動の中心のひとりとして活躍した。

1863年9月26日(文久03年08月14日)に、公卿中山忠能の子である中山忠光らが、各藩の志士を集めて方広寺に総勢38名が集まり、「数千の義民を募り候て御親征御迎えに参上仕り候」との決意をもって大和挙兵を決し、討幕軍の天誅組を起こして、討幕のための挙兵した。

一行は京都を脱して伏見に到着し、吉村寅太郎が用意しておいた武具を船に積み込み、淀川を下り、1863年9月29日(文久03年08月17日)には大和国に入った。

幕府の直轄領大和五條は天領で、代官支配地だった。天誅組は代官所を襲撃し、代官鈴木源内ら6名を殺害し、本陣とした桜井寺へ引上げた。
天誅組は、翌1863年9月30日(文久03年08月18日)、彼を鳩首し、近来、違勅の幕府の逆意を受け、有志を弾圧し、朝廷と幕府を同様に心得、わずか300年の恩義を主張し、開闢以来の天恩を忘却せしめ、しかも、このために皇国を辱め、外国の助けともなることをわきまえず、収斂の罪も少なくなく、罪科重大であるので、誅戮を加えたと、大和を朝廷領とすることを宣言した。

朝廷は1863年10月13日(文久03年09月01日)に、十津川郷士に対して、中山が勅使であるというのは虚偽であるとの沙汰を伝え、1863年10月17日(文久03年09月05日)には天誅組を追討するよう命じた。天誅組は津藩の攻撃を受けて天之川辻を放棄し、南に退却したが、1863年10月27日(文久03年09月15日)に、郷士は天誅組の十津川退去を願い出た。天誅組は、紀州尾鷲に血路を開くことにし、1863年10月31日(文久03年09月19日)、十津川郷を去って、険しい山道を西に向った。このとき、一行は40余人ほどだった。

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