八十路の旅

平成20年8月3日、満八十才、傘寿になり、八十路の旅を、徒然なるままに記してみよう。

50代スキーに挑戦

2017-01-25 13:45:51 | Weblog

  前のブログ・「嗚呼、後川峠」(拙著「元気が一番」より抜粋)を掲載した。積雪がつづく毎日、つい、昭和38年の豪雪を思い出して、少し長文になったが記した。ところが、読んでくださる人がいた。うれしかった。

 今回も、このところの毎日の降雪に因み、「元気が一番」より、50才になってスキーに挑戦した記録を掲載した。お付き合いください。

<50代スキーに挑戦>

  私が本格的にスキーを初めたのは50才になってからだった。きっかけは新しく赴任した中学校にスキー教室があったからである。

 公立の小中学校では3月になると人事異動が先生たちの話題となる。
 7年も同じ学校に勤務していると、次は君の番だとささやかれる。いつのまにか本人もその気になってしまうから奇妙である。うわさのとおりになる場合もあるが、時として外れることがある。移動覚悟で、身の回りを整理していておじゃんになり大笑いとなる。しかし、その反対の場合もある。その時はお互いにちょっと気まずいおもいがする。

  さて、私のことを記してみよう。
  私たちの年代(昭和初頭生まれ)でスキーをした経験のある者はきわめて少ない。幼いとき雪が降ると子供同士で、竹を焼いて、その先を反らせてスキーを作り、縄で足を竹のスキーに結わえつけ、降り積もった雪の野原を滑った体験があるぐらいだ。
  昭和47年頃、多紀郡(現篠山市)の中学校では、2年生が実施していた社会見学旅行がスキー教室に変わっていった。4月に人事異動があり近くの中学校に転勤した。ところが、一つ気がかりなことがあった。今度の学校は2年生の学年行事はスキー教室であった。私にはスキーの経験は全くない。2年生の担任をすると必然的にスキー教室に行かねばならない。
  その不安は的中した。新しく赴任した学校での構内人事で、私は2年生の担任となった。「さあ、冬はスキーに行かねばならない。どうしよう!」という思いが常に私の胸をしめつけた。

  その年、夏の兵庫県中学校野球大会で、野球部の監督としてベスト4に残り第3位になった。それはある意味で私にとっては不幸であった。野球ができるからスキーも出来るとの期待が高まったのである。スキー教室が近づき、スキーの役割分担を決めるとき、私は写真係となった。スキーのスナップ写真を撮るのは、スキーの技術がかなり熟練していないと、生徒たちの思い出に残る写真は写せない。
  不安とプレッシャーの交錯する心に反してスキー教室はやってきた。私はスキーの板をつけたが、滑るどころか、立っていることもままならなかった。まして、写真を撮ることなど全く出来ない。私は恥を忍んで。スキー板を脱ぎ捨て、自分の足で雪原を跳びはねて写真を撮った。先生たちも、生徒たちも、けげんな面持ちで私を見つめた。それらの眼差しを背中に感じながら、「よし、今に見ておれ、絶対スキーをものにするぞ!」と、心に決めた。

  スキー学校が終わったその年の3月、私はひそかにスキー板とスキー靴をとりよせ、単身、スキーに挑戦した。
  日曜日になると、朝の5時に家を出発した。「あんた、しまいには足を折りますよ。気をつけて下さいよ」と、心配げに呟く家内の声を背に、手づくりの弁当持参で、北に向かって車を走らせた。めざすは<積雪30センチ・スキー可>の奥神鍋だ。

  しかし、気持ちに反してスキーの技術は全く上達しなかった。皆目滑ることが出来ないのである。ともかく止まることができなかった。一度、リフトを利用して山に上がった、雪原を滑り降りることができない。麓までたどり着くのは並大抵ではなかった。奥神鍋の麓に広がる勾配のないゲレンデで、おそるおそる滑るしか方法がなかったのである。
  もう殆ど諦めかけていた時、とんでもないことがおきた。昼を少々過ぎた頃であった。麓のゲレンデでストックをつきながら
板を滑らせていると、ちょっとしたコブがあって、それに乗り上げたのだ。ストックをつくと、スキー板の先が下を向いた。セーブにセーブを重ねていた私にとって、まさに情け容赦はなかった。スキー板は意志に反して一直線に滑り降りはじめた。間の悪いことに私の前方にゴザを広げて昼食をしているファミリーがあった。「このままでいくと、もろにファミリーに突入する」・・・。「ウワァー!」私は声にならない声を上げた。とっさに私の体重のすべてが右足にのっかった。私の左足は若いとき野球のスライディングで半月板を痛めていたのである。まさに無意識であった。スキー板はちょうどファミリーを直撃する寸前で、スキー板を斜めに急停車したのだった。
  一瞬、お母さんや子供たちの大きく開いた眼が細くなった。子供たちから拍手が起こった。

  「止まることができた!」
  これが私のスキーを病みつきにしたきっかけである。スキー板を八の字にしたボーゲンで滑りながら、右足に体重をかければ好きなように、好きなときに止まることができた。おもしろかった。スキーがこれほどおもしろいものだとはついぞ知らなかった。私は一人でこっそりとスキーの技術を体得していった。上達は早かった。六甲の人工スキー場を直滑降で滑り降りた。「どんな場所でも止まることができる」という自信がいままで遠かった雪原が身近にひろがった。しかし、そのことは誰も知らなかった。

  一年が過ぎて再びスキーの季節がやってきた。
  その年は殊のほか雪がよく降った。毎年、スキー学校が近づくとスキーの同好会が結成されて、リハーサルをハチ高原で実施した。もちろん、私もそのメンバーの一員となった。
  夕方にハチ高原の麓に着き、そこで一泊し、翌朝リフトを乗り継いで、高丸の頂上に着き、そこから一気に滑り降りようということになった。

  その晩、夕食をとりながら仲間のみんなが妙に楽しそうな顔を私に向けた。正直なA先生がにこっと意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
  「あしたは見ものやで・・・、高丸の頂上から滑るのが楽しみや」
 
昨年の私のスキーの実力を知っている人達は、まさか私が高丸のてっぺんから、滑降すると思ってもいなかったのである。

  スキーについては、誰もがそれぞれの思いや体験があるようである。コブの滑り方、パラレルの板の回し方、ストックの着き方、アイスバーンの着地などなど・・。話しに花が咲いた。そして終わりには「明日が楽しみだ」と、みんなの意見が一致して眠りについた。

  ハチ高原の朝は快晴だった。夜に粉雪が降り、ゲレンデには見事な銀世界が広がっていた。こんな景色はこれまでに見たことがないとみんな言った。新雪をゆくとスキー靴の下でキュッキュッと音がした。リフトを乗り継いで総勢20名のメンバーが高丸に集結した。いよいよ一斉に滑る状況がととのった訳だ。

  しかし、滑る順番は暗黙のうちに、はじめから決まっていた。先頭は紺色のスキー服を着たS先生だった。彼はきれいな弧を描きながら、はるか遠くの丘にスキーを止めて私たちを振り返った。スキーのキャリアが違う。S先生のように皆いかなかった。皆、口ほどではなかった。途中で2、3人が転倒した。私は終わりのほうでストックをつき、雪を蹴った。まさに直滑降であった。誰よりも早かった。あっという間に私はS先生の横に止まった。3番目だった。

  後続部隊は次々とS先生のところに集結した。それぞれ、勝ち誇ったように高丸のゲレンデに目を向けた。確か5番目に出発したA先生もまた同じように丘の中腹にスキーを止めてゲレンデを振り返った。きっとA先生はゲレンデに転倒している私の姿を探し求めていたのだろう・・・。

  瞬間、「自分の横に私がいる。ええッ!なぜ?」・・A先生の驚きに満ちた顔が、みんなの顔が、私には未だに忘れることはできない。・・・おわり

  

☆ハチ高原で、師匠のS先生と。昭和54年頃。

☆スキー仲間と白馬・岩岳スキー場にいく。白馬を背にしてのポーズ。右から2番目がS先生。3番目がわが輩。昭和54年頃、懐かしい一コマである。

 

<「八十路の旅・第10号」が届いた>

  2017年、1月26日、午後4時、gooブログ・バックアップ・書籍化で依頼した「八十路の旅・第10号」が宅配で、わがもとに届いた。今回の10号は、書籍化の仕上がり見本のベージ数が上限を超えて、うまく機能せず、終わりに倅の手を煩わしての製本注文だった。

  まあ、ブログを開設して8年6か月、積もり積もって第10号となった。考えるとあと1年半年で、「八十路の旅」は終了する。今から先のことはわからないが、90才になって「八十路の旅」はピンとこない。新しくブログを開設するか、「八十路の旅」の題名を設定変更して、「卒寿の旅」として、ブログをそのまま続けるか、迷っている。

  「どうしたもんじゃろのぉ?」・・goo事務局に質問してみようと考えている。・・「まだ、生きているつもりやんか」・・みなの声が聞こえてくる。「1年半年って、すぐ来るぞ」・・来年からはいよいよ「九十路の旅」(ここのそじのたび」、「卒寿の旅」(そつじゅのたび)のブログを歩むことになる。九十というと苦渋ともとれるので、やっぱり、「卒寿の旅」がいいと考えている。思いは果てなく広がる。

  

☆「八十路の旅」第10号の表紙と306,307頁を開いた写真です。何分夜のことでうまく撮れなかったよーん。中見の写真は八坂神社の大鳥居の前のツウ・ショット。26日、午後8時ごろ撮った。新聞紙の上で撮ったので、ややこしい写真となった。結局、撮り直しました。27日・10:00写。

<こころの匙加減>

  1月26日、内科の定期検診が終わり、帰路、スーパーの書店に立ち寄る。新書のコーナーに高橋幸枝著・100歳が見つけた 「こころの匙加減」という本が並んでいた。

  手にとり、立ち読み、おもしろそうだったから買って帰った。何といっても100歳の人の書かれた本である。目下、目を通しているが、これほど当たり前のことを、当たり前に書かれた本はないと思う。当たり前だけにジンジン胸にひびくから妙である。

  高齢化と言っても100才の時代となった。日野原重明さん(1911年生まれ・105才)、篠田桃紅さん(1913年生まれ・103才)、そして高橋幸枝さん(1916年生まれ・100才)・・文字通りみな100才を生きてきたお方である。それぞれ生きてこられた年輪がある。それぞれの言葉の意味が重くて深い。

☆本の帯のタイトルは次の通り。
{・・頑張り過ぎず、自分を甘やかせすぎず。我慢しすぎず、他人を頼りにしすぎず。・・毎日を穏やかに”ちょうどよく”生きるための40の真理・・人生とは自分の「匙加減」を見つける旅。〇あらゆる不幸は人と比べることから始まる。〇誰かと話すだけで心は温かくなる。〇「ちょっと不便」なくらいが体にはちょうどいい。〇断ることも立派な愛情表現。〇いい歳をして、見返りなんて求めなさんな。〇言葉にしないと、やさしさは伝わらない。・・}

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7 コメント

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Unknown (matsnao)
2017-01-25 21:19:40
「とうとう足を折ってしまった!」なんて文章が出てきたらどうしようと、ヒヤヒヤしながら読みました。
まさかの場面でコツを掴んだのですね。
私は長いこと舞台に立つ仕事をしていたので、スキーは御法度でした。
直滑降も勇ましいですね!
それにしても骨折なさらなくなによりでした。
きっかけ (jiro)
2017-01-26 14:28:04
matsnao様
早速のコメント、ありがとうございました。
スキーのこと、「きっかけ」が大事だということ、それと、「負けず嫌い」を表に出さずに努力した自負心を書きたかったんです。何とか「元気が一番」贈呈したいと考えています。良い方法があれば教えてください。 

ありがとうございます! (matsnao)
2017-01-27 10:42:54
おはようございます。
本からの引用分からや、ブログで拝見する生活ぶりから、先生が負けん気や様々な場面できっかけを掴み、人生を切り開いていらっしゃったことを十分に受け取っています。
そういう方のブログだからこそ、日々楽しみに訪問させているんだと思います。
先生のブログには人生への活力が満ちています。
私も(先生に比べ怠け者ですが・・)活力に満ちた人生を送りたいと切望しています。
でも過ぎたこととはいえ、骨折なさらなくて本当に良かったです。。
本をお贈り下さるとのこと、嬉しいです。
URLを載せましたので、そちらのコメント欄にメールアドレスをいただけますか?
私のブログはコメント承認制にしていますので、先生のメルアドが公開されることはありません。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

10号おめでとう御座います (白髪のモコ)
2017-01-27 17:27:18
スキーの上達された様も見せて頂きましたが、今回の10号おめでとう御座います
自分で編集されて凄い事です
卒寿もまた頑張ってお続け下さることを祈念いたします
卒寿? (jiro)
2017-01-28 10:09:13
モコ様
10号のお祝いコメント感謝です。
さて、卒寿がえがけるかどうか疑問です。
でも、そういいながら、結構生きるつもりなんですかね。
ともに、PC頑張りましょう。
ブログ (jiro)
2017-01-28 10:18:58
matsnao様
すごいブログですね。
hatenaのブログに入力しましたが、ダメの様子。
また、次の機会に私のブログのコメント欄にメールを知らせることにします。
ブログ (matsnao)
2017-01-28 16:35:59
すごいブログ・・だなんて、変なブログなんでしょうか?私の個性が満載なので変かもしれませんが。気になります。。
(本人はいたってふつうのつもりです)
ところで、自分でブログにコメントしてみましたが、普通にできました。はてなブログは数字の入力とかはなくて、コメントボタンを押して表示された欄に書き込み、投稿を押せば終了する簡単なものです。
どうしたんでしょうねえ??

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