八十路の旅

平成20年8月3日、満八十才、傘寿になり、八十路の旅を、徒然なるままに記してみよう。

小春日和

2016-11-05 11:36:07 | Weblog

<小春日和>

  11月に入り、秋晴れが続いている。このような晴れのことを「小春日和」というようだ。いや、間違いない。調べると、秋から冬にかけて、だんだん寒くなる頃に、突然春のように暖かく晴れる日を、小春日和という。因みに小春は冬の季語。

  11月5日、朝はいちめん霧で閉ざされていたが、午前10時ごろには、のどかな小春日和となった。どうやら山猿も、次の村に移動した様子。至極平穏である。

  毎日、ブログを記せばいいのだが、あれやこれやと、動き、思いをためていると、いつの間にか1週間が過ぎているという状態。もちろん、一つの投稿の題目が決まると、3,4日ぐらいは、その題目で記事を書く。従って、1週間に一度の新規登録をする割合になる。しかし、読み返し、書き加え、訂正しているので、まあ、殆ど1週間は何らの形で、毎日ブログと向き合っている。

<老いについて一考察>

  毎日の思いは、やっぱり「老い」についてである。そして老いに関する本を読む。どうしても90才以上の大先輩、少なくとも私と同年代の人が書いたものに興味を感じる。
  {「長生きに」に負けない生き方を}を書いた外山滋比古さん(1923年・大正12年生まれ・93才)は、このブログにも登場していただいているが、老人にとって最高の生き方は、「忘れるが勝ち」とおっしゃる。もちろん痴呆症という意味ではない。「忘れる力のつよいのは人生の勝者である。人間万事、忘れるが勝ち」と結んでいる。味のある言葉だ。でも、そう簡単に忘れられないのが人情だ。
  また、「いっしょうけんめい、動いて、なにかをしていれば、悪玉の長生きにとりつかれることなく、全力を出して生きていれば、いつしか悪玉長生きを尻目に、われを忘れ、老いを忘れることができるかもしれない」{・・「われ生く、ゆえにわれあり」ですよ。・・}と、結んでいられる。コギット・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)と言われないところがおもしろい。

  ところで、「老いの思想」を書いた安西篤子さん(1927年・昭和2年生まれ・89才)は、吉田兼好と「徒然草」を紹介し、「忘れることこそ老境の上手な処し方」を、いろいろな角度から明解に述べている。少し長くなるが、要点だけ述べてみる。

{・・「今はわすれにけり」といひてありなん。大方はしりたりとも、すずろにいひちらすはさばかりの才にはあらぬにやときこえ、おのづからあやまりもありぬべし・・。
  兼好さんは、実に怖いことを云うではないか。年を取ったなら、かっての自分の得意の道について人から尋ねられても、「もう、忘れましたよ」と云っておくのがよい。むやみにしゃべり散らせば、おのずと限界も見えてくるし、過誤も混じるであろう。・・略・・
「私は知らないのですよ」と、謙虚に答えれば、かえってその人の奥行きが感じられる。・・略・・まして、知りもしないことを、知ったかぶりで、こちらが遠慮して黙っているとも知らず、したり顔に云い聞かせるのを、「そうじゃないのになぁ」などと思いながら聴いているのは興ざめなことである。
  読んでいるだけで、顔が赤くなってくるではないか。
  一時は世にときめいたこともあったにせよ、優秀な新人がつぎつぎに登場する。これはどの世界にも共通する現象である。むかし、この道の神髄を会得した、と思った時期もあるが、それもいつの間にか古くなり、いまやまったくはやらない。ところがそのことに気がつかず、いまでも通用するつもりで、若い人に得意げに教え諭す。相手は「バカバカしい」と思いながら、礼儀正しく黙っているに過ぎないのに。
  兼好法師は、まことに鋭いところを突いてくるではないか。・・}

  徒然草の原文は下巻・168段である。終わりに、安西篤子さんは次のように結んでいる。

{・・こう見てくると、兼好はごくまともなことしか語らない、まったくの常識人である。そしてそれだからこそ、「徒然草」も多くの人に読み継がれてきたのであろう。・・}

  まあ、ともあれ、人生くよくよして生きていかないことだ。でも、謙虚、謙遜の心や態度は、今後老いを生きる上で極めて大切だと思っている。{・・参照:2015,1,22「謙虚と謙遜」<謙虚と謙遜>・・}

 

<三日月に祈る>

  11月4日、午後2時ごろ、急用ができ、篠山市内のMS銀行に行った。用事は10分ですんだ。
  帰路、S医院のそばを通り、急に「インフルエンザの注射」を思い出した。午後の診察は午後3時からである。申し込みの書類をもらっていたので、記入し、3時からの予約をした。30分の空き時間があったので、近くのSマーケットで、パンなどを買って時間待ちをした。
  午後3時5分前に行くと、早速1番で注射をしてもらった。毎年、夫婦でインフルエンザの注射を受けていたが、3年前ごろに、家内にアレルギー反応ができ、それ以来家内は注射を受けていない。「外にでなければいいのです」と言って、かたくなに注射を嫌っている。
  この注射は、かなり高価だそうだが、後期高齢者は1000円で済む。ありがたいことである。

  11月4日、夕方、ふと外に出て、びっくりした。南西の空に、くっきりと三日月が浮かんでいた。あわてて、カメラをかまえたが、一向にうまく撮れない。私の安物のデジカメでは無理なんだろうか?倅の一眼レフに依頼をと思ったが、あいにくと留守。でも、5,6枚のうち、何とか三日月らしい姿を、とらえることができた。

☆11月4日、午後6時25分に撮った三日月だ。・・三日月を眺めながら、しきりに山中鹿之助が、三日月に向かって手を合わせている写真を思い出していた。たしか、70数年前の小学校の教科書に載っていたように思う。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」が鹿之助の言葉だった。
  山中鹿之助は戦国の武将である。明智光秀が織田信長の命を受け、丹波国籾井城(現在、篠山市福住にあった古城)を攻めた時、惨敗し、丹波国・波多野・赤井軍に追撃を受けたが、見事にそれを撃退したのが、山中鹿之助だったといわれている。・・それは私のうろ覚えの知識で、一度史実を調べて、再度掲載予定。

  それにしても、見事な三日月だった。でも、夜の9時ごろには南西空に、三日月の姿はなかった。 

 

<丹波名物の朝霧>

  11月5日(土)、午前8時30分、わが家を取り巻く山間や庭先に、一面の朝霧が立ち込めていた。いよいよ丹波篠山盆地に発生する朝霧、夜霧がやってきた。この霧が、丹波名物、黒豆と山の芋を育てるのだ。昔からの伝えである。科学的に立証した人もいると聞くが、確かな情報ではない。

  やがて、晩秋には、黒豆が莢の中で、カラカラと音を立てる。そして、この霧が黒豆の甘さをつくる。丹波名物と言われるゆえんである。

 

☆(左)11月5日、午前8時30分、家の前から前の山を眺めて撮った。左隅の木の葉の上に、かすかに白く光っているのが太陽だ。お日様の光も、朝霧がさえぎって通さない。午前10時には、からりと晴れあがり、小春日和となった。

☆(右)11月5日、午前30分、家の前庭のわが家の道路沿いに並んだ、ニオイヒバとレイダンディの木を包み込む朝霧の姿。霧が濃く深くなると、いっしゅん先も闇となる。夜霧で車の事故も多い。ひと時、フォッグランプが流行ったが、今ではライトも進歩して、フォッグランプをつけている車はない。

 

<昼ご飯をいただく>

  11月5日、わが輩の昼ごはん。隣のパンのようなものは、実は沖縄のキュウリ。いつも世話になっているKさんが持参。珍しい。沖縄方言で「モーウイ」というそうだ。「モー」は野原、「ウイ」は瓜を指す。野原になる瓜という意味だろう。原産地はインド。

 

☆11月5日、午後12時10分、畑から帰ってきた吾が輩の昼食。右の2皿が沖縄の瓜を使っての手料理。下が煮たもの、上が酢の物、・・なんでも食べる吾が輩は、いたって「うまい」という。酢の物はダイコンの味、煮物は冬瓜の味がした。あとは、チャーハンとみそ汁、キャベツと天ぷらなど・・。もちろん全部いただき、あとは昼寝。


<木切れなどを燃やす様子とショウガ収穫>

  11月5日、午後2時ごろまで昼寝。テレビは観ない。合間にブログを記す。
  午後2時30分ごろより、作業着に着かえて、裏の5号田で、山猿などが折った柿の木の枝葉を燃やした。ワラくずや落ち葉などが、ごみの山を作っていた。この燃やす仕事は吾が輩の役目。・・まあ、吾が輩しか上手に燃やせない。

  午後3時過ぎ、1号田から、家内がショウガを収穫して井戸端に置いた。「茶色の種イモ一つから、出来たものです」とは家内の言葉。毎年、ブログに掲載しているが、家内のせめてもの自慢である。

 

☆11月5日、山猿の折った柿の木切れを燃やしている吾が輩の姿。家内が撮ってくれた。家内のカメラを構えた影を、夕日がみごとに地上にとらえた。ある意味で、貴重な写真の一コマとなった。15:30写。

☆11月5日、同じ時刻に、我が輩がショウガを撮った。家内の申す通り、立派なショウガである。感謝。

 

<夕日3題>

  11月5日、午後4時過ぎ、裏の石段で休憩している目の前に、夕日が西空に静かに沈んでいるのをみた。わが家の久保柿の木の葉を通して、刻一刻、沈んでいく光景にみとれた。

 

☆(左)午後4時33分の夕日。久保柿の枝の合間に沈んでいる。

☆(右)午後4時38分、5分後には殆ど山の端に沈むところだ。まさに一幅の絵である。 

 

☆午後4時42分、夕日はすっかり山の端にかくれた。夕焼けの空がきれいだ。夕焼けの空に浮かぶ久保柿の木を、飽きずに眺めた。一句できたが、「おーい、お茶」に投稿予定。「おーい、お茶」への投稿は、未発表のモノに限るそうだ。

 

<9年目のとろろ街道・炎の祭り>

  11月6日(日)毎日が日曜日の私も、今日はほんまに日曜日となった。心身ともに休日である。一つはこのところ天気が良くて、実は働き過ぎで、少々バテ気味だった。天気も曇り空で、格好の休息日となった。

  ところが、4時ごろ寝床で横になっていると、「今日4時から炎の祭りですよ」と、家内から声がかかった。いや、まいった、すっかり忘れていた。デジカメ片手に黒豆の館まで車を駆った。そして、撮ったのが次の写真だ。

 

☆にしきトンネル北出口の看板。9年目になるので少し色あせた感じだが、しっかり案内しています。

☆祭典の式のあとで、恒例のステージ・イベントがあり、今回は、太鼓、腹話術、ハーモニカ演奏などがあった。いつもより参加者が少ないのが気になった。11月6日、16:00写。

  

☆高々とつまれた山の芋(とろろいも)のつる。このつるに火を点けられた瞬間。あっという間に炎が燃え広がり、煙が中天にのぼった。このような束が5か所ほど圃場に積まれており、次々と炎が上がった。壮観である。
  わが地域の活性化事業、秋の風物詩である。11月16日、16:15写。(次のブログを参照して下さい)

{・・2010,11,10「とろろ街道・炎の祭り」・・2011,11,17「深秋の風物詩」<とろろ街道・炎の祭り>・・2015、11,7「永久圏外」<とろろ街道・炎の祭り>・・}

  第1回は平成19年(2007年)、私が尺八を吹いて、炎の祭りが始まった。あれから9年が経過したんだ。満79才だったのかと、その時の様子が、昨日のようによみがえる。
  ・・働け、動け、休め、良いことは思い出し、気に病むことはすべてさっぱり忘れろ。・・老いの神髄を体感しろ二郎さん!。おわり。

 

 

 

 

 

 

 

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